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 自分が意地っ張りだという自覚は、十二分にある。
 けれどその「意地」が、せめて「見栄」にならないよう努力はしてきたつもりだ。

 ――そのあたりのニュアンスの違いは悟って欲しいお年頃、高柳和巳は早生まれの十七歳である。


title/意地と見栄の間


 高校では家庭などの事情がない限りバイトは禁止されていたため、和巳は『働く』ということをしたことがない。大学に進学すればそういう機会もあるだろうと考えてはいたが、まさか高校生活三年目を途中放棄してこんな形で労働を経験するとは思いもよらなかった。

(灰色の受験生とはいえ、高校生活を放棄する気はさらさらないけど)

 本日の仕事の前準備として簡単な掃除をしながら、そんなことを考えた。
 手にしたスポンジ状の物体で力の限り磨くのは元の世界でいうところのシンクであり、和巳の現在地は院内にある研究員の昼食を作ったりお茶を用意するための台所だ。
 だいぶ見慣れてきたとはいえ、そこで自分が働いているという実感はいまだにわかない。 実感はわかないが、これが夢ではないと理解できる程度には現実的だと自負している。

「そろそろいいでしょう」
「あ、はい」

 かけられた声にはっとして、飛びかけていた思考回路を引き戻す。台所には和巳以外の人間が一人しかいないので、声の主は考えずとも誰か分かった。彼女はてきぱきとした動作で掃除に使っていた用具をしまい、前掛けの皺を伸ばしていた。
 左右にはねる紫紺の髪を背中に流し、細められた深緑の気だるげな目が猫を思わせる。二十代後半から三十代前半の、年齢を問うのが非常に躊躇われる容姿は大人の女性といった雰囲気だ。
 彼女よりは時間をかけながらもスポンジやら洗剤やらを所定の位置に戻す。
 和巳が作業を終え、ちゃんと向き直ったのを見届けてから彼女は口を開いた。

「今日は棚の整理をします」
「はい」
「配置は薬品の棚と一緒。私は右からやるので和巳さんは左から」

 再びはい、と返事をして、そんなに離れてはいない棚の左右に散る。
 人形めいた美しさを持つ紫眼の少女ラスエルとはまた違った意味で素っ気無いこの女性はメノウといって、臨時の研究員などではなく週に二回ほど掃除や片付けのためにくる、いわゆるハウスキーパーというやつだ。

(今日もまたアレか……)

 メノウが研究院に来る日はレリアや副院長のロゼでなく彼女に付くことになっているのだが、その理由が今から始まろうとしている『講義』だった。

「話は昨日の続きで、この国を形成する都市の話をしましょう」
「はい」
「ラトラナジュは王都を中心として大きな都市が四つあり――」

 棚に並んでいる茶葉の缶とにらめっこを開始した和巳へ、訥々と語りだす。
 こうやって一緒に作業をする間、地元民であるメノウがこの国やこの都市、ひいては諸外国の内部事情まで淡々と語り聞かせるのが決まりだった。クレイオによって教えられる文字同様、仕事を覚えるよりも基礎常識を叩き込むことが優先されているのだ。

「まず学術都市、昨今では学研都市と呼ばれるのがここ。言わなくても分かると思うけど、王宮騎士育成特別上級学校ヘルギウスとこの研究院の存在がそう呼ばれる主な理由よ」
「ここって、結構有名なんですね……」

 ここしか知らない和巳には比較対象がないために規模や重要度といったものをはかりかねるのだが、四大都市のひとつに挙げられるのだから相当な大きさなのだろう。
 ようやく解読できたラベルで位置を確認し、正面と思われる方を表に向けて棚に缶を突っ込んだ。和巳がひとつの缶をしまう間に、反対側の棚にいるメノウは十個ほどを整然と並べた。

「魔導研究そのものが珍しい上に、ヘルギウス自体有名だからね」

 視線をよこして和巳を納得したのを確認してから、メノウは講義を再開する。

「それから――」

 続く講義は、つい先日降ったばかりの雨に関連してか水の話が多かった。なんでも地下に水脈が通っているとかで、生活の面で水に関する心配はしなくてもいいらしい。他にもいろんな話を聞いたのだが、和巳にとっては『生活できる』というただ一点のみが重要であったのでほとんど聞き流していたのが現実だ。
 ヘルギウスという名前が過去の英雄から取ってつけられたとか、そんな話を聞いても身になるとは思えない。

「ラトラナジュが建国される前は帝都の一部だったわけだし、そりゃあ立地条件だって最高よ」
「へぇ……でも、この国の首都って別にあるんですよね?」
「ここからだと東北に。整備された道なら馬車で一日くらいの距離にあるわ。この国の王都であるアン・オレは、始妃ニルヴァーナの故国に景色や雰囲気が似ていたから選ばれたらしいしね」

 シヒ……? 始皇帝みたいなものか、と適当に当たりをつけて脳内変換したのち、聞き慣れない単語は右から左へすり抜ける。
 どうやら今度は王都、つまりこの国の中心都市に話が移ったようだ。それにしても話の尽きない人である。

「立地条件は二の次、とまでいかなくとも、この花丸をいくつつけてもお釣りがくるんじゃないかっていう位の快適さを手放してまで現王都を定めたんだから、とんだ愛妻家っぷりよ。まぁ、アン・オレにはこのベリルない戦力的魅力があったわけだけど」

 それにしてもアン・オレとはなにやらカフェオレを連想させる名前だ。この国にはコーヒーらしきものが存在しているため飲もうと思えば飲めるが、和巳はもとよりコーヒー党ではなかったので試そうとは思わない。飲料に関して問題があるとすればここでの主流である紅茶が全く駄目な弟のほうだろう。

「そうなんですか」

 誠意が篭っているとは言いがたい返答をしつつ、茶葉の入った缶のラベルをひとつひとつ時間をかけて確認しながら並べる順番を入れ替えていく。

(えっと……ら、とら、な、じゅ、さん。はつこ……発酵? ど……)

 なにせ覚えたての言語なので形を判別するだけでも重労働だ。アルファベットも含めれば四種類の文字を扱う日本人の脳みそにこれ以上文字を覚えさせるのは酷ではなかろうかと本気で思うのだが、アラビア語を全て一から学ぶよりはいいと無理やり自分を納得させる。喋れるだけまだマシだ。

「王都が持つ戦力的魅力っていうのは要するに――」

 メノウは反応の薄い和巳を気にした風もなく単調に唇を動かすが、その口からは同じ話は全く出てこない。単なる家事手伝いであるはずのメノウの博識っぷりには舌を巻く。いったいいくつの引き出しが頭の中に存在するだろうか。
 自分の生まれ育った国とはいえ、和巳は彼女のようにつかえもよどみもせずに歴史を語ることは出来ない。知識不足を突きつけられているようで非常に耳が痛いと感じてしまうのは単なる被害妄想だろうが、メノウの口が紡ぐ歴史は淡々とした口調ながらも飽くことのない内容なので授業を聞いているような不快感はない。

「それにしても、ほんっと何にも知らないのねぇ」

 まるで院に来たばかりのラスエルみたいだわ、とメノウは小さくぼやいた。
 院に来たばかり、ということは出来たばかりと同義として三年前のはず。三年前は、あの人形のように生気のない少女も和巳と同じように無知だったのだろか。
 首をひねってそんなことを考えていると、講義が再開する前に「すみませーん」と呼ばれる声がした。

「ちょっといいですか?」

 二人して声が聞こえてきたほうを振り返ると、台所の入口からひょっこりと顔を出していたのは薄青色のショートカット。

「あら、ロゼじゃない」

 朝の挨拶を交わしてぶりの副院長は、ただでさえ下がり気味な薄桃色の瞳をさらに下げて、申し訳なさそうに口を開いた。

「和巳さん借りていきたいんですけど」
「あぁ」

 メノウは小瓶片手に反応に困っている和巳に一瞥くれると、ちゃっちゃと持って行っちゃって、の一言で仕事に戻った。

(……私モノ扱いですか!)

 あまりにも素っ気無いメノウの態度に若干打ちひしがれそうになるが、彼女は誰に対してもこのような態度なので諦めるしかない。一々気にしていてはこちらの身が持たないのだ。
 くじけそうな意思にそう言い聞かせると、和巳は自分を呼んだロゼのあとを追いかけ台所を後にした。

※※※

 広いテーブルの右側には昼間の太陽光を美しく跳ね返すビーカー。左側には、若干の汚れを残したままの濡れたビーカー。  その丁度中心に陣取り、白い布で黙々とガラスを磨き上げるのは和巳である。
 眼鏡越しに円筒形のガラスを見つめる瞳は、傍から見るとなにを考えているのか分からない程度に虚ろだった。中身は実にしょうもないことなのだが。

(……これでインスタントラーメン作ったらクビになるかしら)

 そもそもこの世界にインスタントラーメンが存在するかどうかが問題だったわ、一人悲しくうなずいて、自分的合格ラインまで磨いたビーカーを机に戻した。残りノルマは十二個である。
 研究院内には、和巳の他に三人しかいない。さっきまで一緒だったメノウ、そこから連れ出したロゼ、最後に、先ほどから黙々と何かの実験をしているラスエル。
 数回しか面識のない臨時の研究員二名は休みである。
 その人たちもこれまた女性で、その全てをレリアがスカウトしてきたと知ったときは嫌な想像が頭をよぎったりもしたのだが、想像はあくまでも想像だ。

(当のレリアさんは現場にいないし)

 現在高柳姉弟の保護者でもあるレリアの、院長としての仕事が想像していた以上に多忙だということに驚いたのは記憶に新しい。今日とて、和巳にはよく分からない他所の研究所に出向いている……らしい。
 椅子に座ってなのでさして苦ではないものの、ビーカーを磨くというのは単調な作業で眠気を誘う。意識を保つためにと、和巳は不在の院長についてつらつらと自分なりに考える。
 和巳が働くようになってから一度だけこの研究院を訪れる客人がいて、そのとき彼女がどんな対応をしていたかちらりと見たが、本性(というと少々大げさだが)を知っている和巳でさえ、うっかり騙されそうなほどだった。
 控えめながらも豊かな表情だとか、決して押し付けがましくないながらスッと入っていく言葉の選び方だとか。見事としか言いようのない、あれは猫をかぶるなどという言葉では到底間に合わないレベルの演技だった。

(月影先生もびっくりよ)

 少なくとも初対面の子供相手にあからさまな取引を持ちかけるほど脆い造りの仮面ではないはずだ。
 それを取り去ってまで手元に置きたいというのだから、よほどの価値があると思われたのだろう。

(私か大和のどちらかに)

 自分たち二人の扱いの違いを鑑みればどちらがレリアに必要とされているかはなんとなく見当は付くのだが、あえて気付かない振りをして現実から目を背けた。

 今は、まだ。

 喉元で引っかかっているそれを無理矢理飲み込んで、自分の仕事に集中する。なかなか取れない汚れ相手に指先が摩擦熱で痛くなるくらい強い力でガラスをこすっていると、和巳あてにではない副院長の声が耳に届く。

「ラスエル、どう?」

 試験管の中で揺らめく液体と睨めっこしていた少女が顔をあげた。紫色の瞳は『感情』という色においてほとんど無色だ。
 容姿だけ見れば中学生にも見える彼女は、聞けばひとつ年上だという。童顔というのはこういうことを指すのかとひっそりと納得したものだ。

「薬品の効果は発揮されているようです。ただムラがあるのは前回と変わりありません」
「安定性が一番欲しいとこなんだけど、難しいな……」

 一目見ただけでは分からない程度の、しかし確かな信頼がそこにはあった。
 副院長と研究員、と聞けば当然上司と部下のような関係だと勝手に想像していたが、実際には単なる人当たりの良さからロゼに『押し付けられた』だけで、立場的にはそう変わらないらしい。ラスエルの敬語はデフォルトであり上司に対するものの類ではなく、二人の関係はあくまでも対等だった。

(レリアさんを尊敬してるって部分まで同じだし)

 それはこの研究院に所属している人間のほぼ全てに言えることだった。その輪の中に入れないのは新参者でなおかつ異分子の和巳だけであり、疎外感のようなものを感じつつも自らその輪の中に飛び込もうとは決して思えない。
 ロゼとラスエルは二、三言葉を交わしていたが、諦めたような溜息と態度を見るに、どうやら今日はここまでのようだ。院で行われている研究はひとつではないため、別の研究に移るだけという可能性もなくはないのだが。

「仕方ない、かな」
「そうですね」

 磨きかけのビーカーを机に戻し、音を立てないように椅子から立つと、二人の話がひと段落ついた頃合を見計らって近づく。続けるにしろ終わらせるにしろ一呼吸入れるならお茶の用意をしなければならない。

「お茶、お持ちしましょうか?」

 そうやって確認を取る見習い以下の研究員兼新人ハウスキーパーへ、副院長はもともと下がり気味の眉尻をさらに下げて肩をすくめてみせた。

「これ以上は、それなりの魔術がつかえる人間がいないとね」

 魔術を使うのは専らラスエルか他にもいる臨時の研究員で、ロゼ自身が魔術を扱っている姿というのは見たことがない。火をつけるにしてもマッチを使用していることから、恐らく得意ではないのだろう。
 そして魔導というのはあくまで『魔術』の効果を高めるための研究であり、科学や化学とは性質が違うらしい。これだけの実験道具が用意され研究に取り組んでいるように見えて、根底は『魔術』ありき、なのだ。なんだかもったいないような気もするが、和巳が口を出せる話でもない。

「契約してる人間でもいればまた違ってくるんだろうけど、そのレベルにもなると研究員なんてやらずに王宮専属の魔術師なんかになるだろうしねぇ」  しみじみと、人手不足を嘆くレリアと同じような悔しさをにじませてロゼが呟いた言葉に、首をかしげる。

「契約、って……誰とですか?」

 和巳からしてみれば当然の疑問だったのだが、どうやらロゼたち『こちらの世界の人間』からするとそれは至極当たり前な常識だったようでひどく驚かれる。困ったような笑顔を見せるロゼにこちらが困る。

「あー……そっか、和巳さんは精霊に詳しくないんだっけ?」
「存在そのものを知ったのが最近ですよ」

 微量の自嘲を含ませて口にする。あ、今一瞬背中に刺さった。なんか刺さった……視線とか。もぞもぞとした感覚を訴えてくる背中が気持ち悪い。

「誰と、って聞かれたら精霊と、ってことになるかな。魔力の質とその人自身の資質が問われる、かな」

 あとは感応力とかも関係してくるんだけど、この辺は専門的になるから割愛ね、と一言置いてロゼは解説を続ける。

「簡単に言っちゃうと、その人専属で力を貸してあげる精霊が一生付き従う。それが契約」

 魔石も必要なくなって楽だし、力も安定するのがメリットなんだそうだ。

「ただし当然デメリットもある。望めば力を貸してくれるけど、その精霊が力を貸してくれる範囲でしか魔術をふるえなくなるんだ。例えばその人の資質が十だとして、もしも精霊自身に八の力しかなかったら? 残りの二つ分は損をする」
「それじゃあ、契約なんてしないほうがいいんじゃないですか?」
「いや、実はこういうケースは少なくてね。人間に契約を持ちかけられる精霊ともなれば長い間生きていて力のある存在だし、それを凌駕するなんてとんでもない化け物クラス。むしろとっとと契約して力のバランスを取ることをオススメするね」

 過ぎた力は危険、ということか。
 それにしても精霊や魔術について語るロゼは不自然なくらい饒舌で、その口調もテンポが速い。毎度のことではあるが、ひとつひとつを咀嚼して脳に染み込ませると間に合わないので、フルスピードで詰め込んでまとめる。

「一番のネックは他の魔術が一切使えなくなることだよ。土、火、風、水、精霊には四つの属性があるけど、ひとつの精霊にはひとつの属性しかない。契約してしまえばその精霊の属性しか使えなくなる」
「普通は違うんですか?」
「確かに人には得手不得手があるけど、魔石を用いれば簡単な家庭魔術くらいは使えることのほうが多いものだよ。でも、契約してしまえばそれもかなわない」

 和巳はいまだに魔石とやらを用いても火種ひとつ作り出せないのだが、いつかマッチのかわりに赤い石を使うようになるのだろうか。自分では全く想像できない。

「魔石ってそんなにすごいものなんですね」
「あー、驚くのはそっちなんだ」

 一通り語り終えて通常のテンションに戻った副院長が見せる苦笑は、二人の間に横たわる埋めようのない溝を感じさせた。

(魔石があれば魔術が使えるのは当然、ってことかしら)

 その認識の違いが、彼女らにとって魔術や精霊というのはひどく常識的で生きていく上での前提で、生活になじんだ存在なのだと示している。
 しかし、この世界から見れば『使えて当然』の力である魔術も和巳から見れば普通に『使えない』ものなのだ。それを使えるようになるアイテムとくれば、言い方は陳腐だがすごいものに思える。あまりにもゲーム的過ぎて実感が湧かないが。

「本当に、和巳さんは精霊のいない場所で暮らしてたんだね」

 呆れと憐憫が混じったような声音に、メノウの「なんにも知らないねぇ」という言葉が重なった。

「えぇ、まぁ」

 純粋な疑問の瞳を向けてくるロゼと目を合わせられずに視線をさまよわせる。今となっても懐疑的ですがね、とはさすがに口に出来ず中途半端に濁した。
 魔法のような力、魔術とやらは何度も見せてもらったのだが、いまだ精霊そのものを目にしたことは一度たりとてないのだから。

「それじゃ、今までどうやって生活してきたの?」
「それは」

 この世界よりも格段に進歩した科学技術の成せる業だ。生活面で活用されていたのは当然――。

(駄目よ)

 クレイオはレリアにも言わないほうがいい、と言ったではないか。それは恐らくレリアに迷惑がかかるとか、そういった類での忠告だったに違いない。
 そう――神の領域とされる雷と同質の力を生活の中でごく普通に利用する、そんな人間を研究員にしていると知れたらただでは済まない。誰かに知られれば、レリアへの確実なダメージになる。そんな危惧を、危険性を、大和と和巳の二人は内包していると。
 お人よしの彼ですら、まるで咎めるように口にした言葉は和巳の中に恐怖を植えつけていた。

(クロムに初めて会ったときの事を思い出しなさい)

 今だって態度が軟化する気配は一向にないが、初対面での印象が一番強烈だったし怖かった。
 向けられた剣に込められた感情。未知の、正体の分からない不審に端を発するあの拒絶と一方的な態度。
 ――レリアまで、そうなってしまったら?
 和巳はぎゅ、と見えない位置で拳を握った。てのひらはじっとりと汗にぬれており、ひどく不快だった。

(今、切り捨てられ見放されるのは困る。たかだか一ヶ月にも満たない関係では保身のために差し出 されかねない、いや逆手に取って抜け出せなくなるくらいにがんじがらめにされる可能性だって皆無ではないというのに、そう易々と口にしていいはずがない……いいはずが、ないのよ)

 頭の中の自分はやけに冷静な分析をし、湿った手のひらをこっそりと拭った和巳に今考えうる限りで最悪の結果を突きつけてくる。

(私ひとりの問題じゃない)

 今頃、新しいクラスで過ごしてるのだろう弟の姿が頭をかすめた。
 ひとりじゃない、というのは心強いと同時に足枷でもあった。自分ひとりであれば好き勝手自由に振舞える場面でも、弟のことを思うとそうはいかない。和巳の些細な失言ひとつで崩壊する可能性のある、今置かれている現状はそういうものだとつい先日突きつけられたばかりなのだ。
 しかし、その足枷は和巳に踏みとどまることを教えてくれる。
 黙りこんでしまったせいか、こちらを不思議そうに見つめるロゼには悪いが、素直に答えるわけにはいかない。

「精霊に頼らずとも生きていける環境だった、としかいえません」

 擬音をつけるならまさににっこり、というのが一番合うだろう『作り笑い』できっぱりと言い切る。いかにも含みのありそうな笑顔と突っぱねるような物言いはわざとだ。
 下手に誤魔化してつつかれるよりはよほどいい。これ以上踏み入るな、立ち入るな、どうか踏みとどまって。

(近づいてくれるな)

 顔面の表情筋は逆らうことなく口元を三日月に吊り上げたが、心臓ばかりは言うことを聞かずに早い調子で鼓動を打ち、二人の反応に怯えている。
 気持ち悪いくらいの営業スマイルを見せた和巳へ、不快感をあらわにしたのは案の定ラスエルで、ロゼの方は苦笑を漏らすだけだった。

「あなたは――」

 抑揚のない、鋭い叱責を飛ばすような口調が視線とともに突き刺さる。
 冷たい紫の瞳で睨みながら、一歩、詰め寄るように近づいてきたラスエルの肩をロゼが掴んだ。

「ラスエル、たんま」
「ですが」

 言い募ろうとしたラスエルへ、ロゼはゆるく首を振った。
 研究院の創設以前から付き合いのあったという二人の間には目に見えない信頼感があり、紫と薄桃の瞳は言葉にならない会話を交わしていた。
 ふい、と先に逸らされたのは紫色で、それは和巳に合わされることなく彼女は実験道具の片づけを始めてしまった。
 そんなラスエルの態度に苦笑を浮かべながらも、ロゼは副院長として和巳に雑用を言い渡す。

「じゃあ和巳さん、お茶の前に片付けも手伝ってもらえる?」
「……わかりました」

 躊躇いがちにだがそれでも返事をする。仕事に取り掛かろうとして二人から少し離れると、一気に疲れが押し寄せてきた。
 あぁもうホント、順調だなんてほざいたのは一体どの口だ。

(私か)

 自棄になって何もかもを投げ出したくなる衝動を自嘲と諦観とで抑え込んで、それでもかすかに残った気持ち悪さを小さな溜息に乗せて口から出した。
 意地を張ったことに後悔なんてしていないけれど。

(これはやっぱり、見栄になるのかしら)

 元の世界に戻るのと、その見栄が本物になるのと。どちらが早いか和巳にはさっぱり見当も付かなかったが、できれば前者のほうが先であればいいと心の底から願った。

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お小言
和巳さんがなにやらネガティブですが、まぁ女性らしい打算ということでひとつ。
あとは、思い浮かべた後の切り替えとかが和巳さんらしいということでひとつ。
書きたいことの三分の一くらいしか書いてない! でもこの流れだとこれ以上は無理!