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「これ、持って行ってもらえますか?」

 滅多に崩されない、人の心を懐柔するには足る温かみの笑顔を添えて差し出されたのは、ティーセット一式が乗った盆だった。

「はい?」

 液体の重みに腕を緊張させながら受け取ったはいいものの、何処へ持っていけばいいのか分からなかった和巳は首をかしげる。

「たぶん今頃、大和君の部屋にいると思いますから」

 優しい微笑をさらに深くして、再度「いいですか?」と頼まれる。
 盆の上のティーカップは二つ。
 弟の部屋にいるもう一人は誰か、とは口にしなかった。


title/お茶請けが苦い夜


 窓から届く月光はそれなりに部屋を明るくしてくれるものの十分な明るさではなく、テーブルの端に置かれたランプが手元の本に印字された文字の判別を可能にしていた。
 テーブルは人が一人勉強するのにギリギリ足るサイズの丸テーブルだ。用意された二脚のうち一脚に、そのテーブルを肘掛にするような体勢で座り、クロムは歴史の教科書をめくる。
 黙読で一ページを読み進めたところで、残りの一脚に座る勉強机の使用者に視線を滑らせた。

(まったく、ひどい猫背だ)

 ひっそりと溜息をつくクロムの反対側で、背中を丸めてノートにかじりついているのは不本意な経緯で同居人兼クラスメイトになった高柳大和である。
 文字をつづる指先の動きが止まったのを確認して、口を開く。視線の先は手元の教科書ではなく、テーブルの一角をささやかに占領する、クロム自身が板書したノートだ。

「――また、建国に関する争いの中で最も規模が大きかったのが『デュノアの反乱』であり――」

 そこまで朗読して、その内容がノートのどの位置に書かれているかを指先でなぞってやると、大和は何度もそれを確認しながら自分に判読できる文字でせっせと書き始める。

 四年間――正確に言えば三年と数ヶ月、出来うる限り他人との関わりを排除してきたクロムの学校生活は、この大和という異邦人がやって来てから随分と様変わりした。
 物珍しい編入生に群がる同級生たちから逃げるために助けを求められ、つい応えてしまったあれ以来、大和はクロムの後ろを付いて回るようになったのだ。ひょろりと縦に長い身体ひょこひょこ付いてくる姿は大型犬に似ている。

(あいつら、犬は総じて可愛がる生き物だとでも思っているのか?)

 少し考えれば明らかに怪しい素性の持ち主だというのに、ヘルギウスに編入することを許されたのだからというそれだけの理由で疑いもしないクラスメイトたち。彼らは外国産大型犬の前を歩くクロムにも以前のような壁を感じないらしく、なんやかんやと声をかけてくるのだ。

(まぁ、本来なら貴族に連なる者、もしくはそういった権力者に推薦された人間しか入れない場所だからな)

 それまで心地よかった一人の空間から引き摺り下ろした張本人は、分類するならば後者にあたる。  大和が書き終えるまでの間、何度も読み込んだ教科書の文面を追うのにも飽きてきたので、自分のものではないノートにつづられる、彼曰くの「文字」を観察する。
 クロムには複雑な形をした「何か」にしか見えないそれらは、大和の手に握られた筆によって生み出されていく。同じ形のものが出てくる頻度が低い――要するに種類が豊富なのだろう。
 つらつらと奇怪な形について考えていると、小さな点を書いたところで筆の動きが止まった。それ以上進む様子がないのを一瞬で確認し、今度は自分自身の見慣れた文字に視線を移した。
 小さな点、もしくは丸で文章の区切りが来たことを示す。
 書かれた文字を読むことは出来ずとも、規則性はだいぶ掴んできた。

「――この反乱を収めたのもまた、『剣と楯』の一人だったと言われている」
「剣と……『たて』……たてたてたてたて……」

 途中までなめらかに紙面を滑っていた筆がそこで止まり、さまよい始めた。
 これまでにも何度かあったが、どうやら文字が思い出せないらしい。ブツブツと繰り返すばかりで手が止まっている。クロムは呆れの溜息を吐いた。

「お前の言う『日本語』なら、書けるんじゃなかったのか」
「漢字は得意分野じゃないの!」

 よく分からない言い訳である。
 確かにクロムも、その複雑怪奇さに覚えるのが面倒そうだとは思ったが、それを書けると言ったのは当人だ。

「まったくもう……クロムも日本の小・中学生が漢字を習得する苦労を知ればいい……」
「ところで僕はそろそろ自分の部屋に帰りたいんだが」

 教科書を読むフリをして軽く脅しをかけると、あっさり引き下がって再びテーブルにかじりついた。なんとなく、その行動が犬っぽいなぁと考えてしまった自分が嫌だ。

「たてたてたてたて……『矛盾』のじゅん……盾?」

 なにかの呪いかと疑いたくなるくらい「たて」を繰り返していたが、ようやく思い出すに至ったらしい。迷うように滑らせた筆が辿った形は複雑な形をしていて、一度見ただけでは到底覚えられそうにない。
 先日、彼ではないほうの、もう一人の異邦人が書いたという「日本語」を見せてもらったが、やはりデフォルメした何かの絵か、でたらめな線の集合体にしか見えなかった。

「そりゃ、姉ちゃんに比べれば理数よりも文系寄りだけどさー。漢字の種類の豊富さは世界に誇れるレベルだと思うよ?」

 小さな丸で文末を飾り、ひと段落ついたことを悟ったのか。従順なのに生意気な口は先ほどの会話を再開させた。

「そうか」
「分からないんだったら平仮名で書けばいいだけの話なんだろうけど、そうすると明らかに『あ、こいつ漢字分からなかったんだ』って思われるじゃん。それを何かの弾みで姉ちゃんに見られでもしたら漢字の書き取りやらされるって! ……いやどうだろう……するかな……? 馬鹿にするだけで終わりそうな気も……というか可能性としてはそっちのほうが高そう……」
「そういえば」

 先ほどから頻繁に出てくる姉という単語に思い起こされるものがあったので、クロムは不気味な独り言を遮って珍しく自分から切り出した。
 いまだ開いたままだった教科書をパタンと閉じる。その音で背中を伸ばした大和のほうを向けば、言葉の続きを期待する、薄墨を流したような黒い瞳とかち合った。

「お前の姉の本性はどっちなんだ?」

 口にしてから話が唐突過ぎたかと一瞬後悔したが、その問いかけに大和はあからさまに身体をこわばらせた。

「……まず、クロムが一体なにを見たのか聞いても良いかな?」

 目に見えて分かるほど口元が引きつったので、思い当たる節はあるようだ。心なしか顔も血の気が引いて青い。
 どこか悲壮感漂う表情は同情を引くに足るものだったが、クロムは迷わずに止めを刺すべく続きを口にした。

「それはもう鬼のような形相で」

 そこまで言うと、大和は頭を抱えてテーブルに突っ伏した。何も聞きたくはない、とでもいうように耳をふさいで唸っている。
 しばらくは答えが得られそうにないので放置して、話の種である人間について思い返してみることにした。

 まっすぐに相手を射抜く瞳、そこに宿った強い光。胸倉を掴んだ拳の固さ。
 気迫のある表情も忘れがたいが、最も印象に残っているのはあの台詞だ。
 ――テメェに譲れないものがあるのと同じで
 ――俺だって守らなきゃなんねーもんがあるんだよ

 低く荒げられた声でも、当人の資質かその声色は澄んでいて、恐怖を植えつけるような強さはないがしっかりと耳に届く鋭さはあった。

(あんな風に言い切れるとは思わなかったな)

 彼女の言った『守る』べき対象とは十中八九目の前にいる弟だろう。深く考えずとも分かることだ。

「あぁぁぁぁ、姉ちゃんがなんて言ってそんな状態になったのかは分かるけど分かりたくないので、それ以上は言わないでもらえると嬉しい、です」
「……」

 目の前でオロオロと姉の凶行に小さくなる、クロムからすればひとつ年下の少年は、決して『守られる』側の人間ではない。
 裏路地で暴漢を追い払ったのはクロムの剣の力だけではなく、この少年がなにかをしたのだということは容易に察しが付いた。軽く剣を薙いだだけで人が倒れるはずがないのだ。

(恐らくは、無意識なのだろうが)

 具体的になにをしたのかまでは判断できない。だが、かつてクロムにも自分の魔力を制御しきれず扱っていた時期があったため感覚としては理解できる。
 なにはともあれ確かなのは、大和という少年にはレリアが欲しいと望むだけの高い魔力があるということだ。

「で、結局どちらが本性なんだ?」

 本の表紙を意味もなく撫でながら、うなり声の沈静化した大和に続きを促す。
 むくり、と起き上がって現れた瞳はどこか哀愁漂う遠いものだった。

「アレね、限定解除なんだよ」

 今の言葉もそうだが、この姉弟はそろって理解不能な単語を口にすることがある。重ねて問おうとしたところで、勢いよく扉を開ける音と謎の掛け声が部屋に響いた。

「ちわーす、三河屋でーす」
「にぎゃぁああああああ!」
「……人間の言葉を話せ」

 思わず耳をふさいで不満を漏らすが、大和はそれまでも決して良いとはいえなかった顔色をさらに悪くさせるばかりで聞いている様子はない。いきなり姿を現した姉に今の会話を聞かれていたのではないかと、気が気ではないのだろう。
 あら元気ねぇ、とのん気に応えて、ドアを後ろ手に閉めた恐怖の元凶はずかずかと室内に足をすすめる。カップとポットの乗った盆を両手に、あっという間にテーブルへたどり着いた。

「レリアさんがそろそろいい頃合だろう、って。持っていくように仰ったのよ」

 和巳は弟が怯えていることなど気にした風もなく盆を掲げ、にっこりと笑った。
 クロムはティーセットを置く場所を確保するため、広げられていたすべての冊子を閉じ、まとめていく。
 確かにこの勉強会を始めてそれなりの時間が経つ。休憩を入れるには丁度良い頃合だ。心中でレリアの気遣いに感謝するクロムの横で、にわか配達屋となった和巳が二人に向けて話しかける。

「軽食もあるんだけど、一気には運べなかったから――」
「オレとってくるよ! 姉ちゃんありがとね!」

 椅子をひっくり返すんじゃないかという勢いで立ち上がり、返答を待たずに大和は部屋から走り去った。
 見事な逃げ足の速さに、二人ともあっけに取られ出口を見つめる。

「あんなに慌てて逃げるなんて……何の話をしていたのかしら?」
「別に」
「あらそう」

 素っ気無い返答に食いついてこないのが意外で眉を寄せる。
 和巳は片付いたテーブルの上に盆を置くと、主が逃げ出したばかりの椅子に迷わず座った。クロムの眉間の皺がますます深くなる。

「私、あなたに話があるの」

 我が物顔で弟の席をのっとった姉は、組んだ手で口元を隠すようにしてにっこりと笑った。
 どうやらこの部屋に入るタイミングを見計らっていたらしい。そもそも、ティーセットと茶菓子をカートに載せて運んでくれば一度で済むし、普通はそうするものだ。
 クロムはずっとテーブルを肘掛にした体勢を崩しておらず、話を聞く気は皆無だった。

「僕にはない」
「私はあるの」
「聞くつもりはない」
「一人で勝手に喋るわ」

 クロムが相手にするのも疲れて押し黙る一方、自分の仕事を放棄するつもりのないらしい和巳は鼻歌でも歌いそうな雰囲気でカップを手にした。用意された二つのカップのうち、ティー・バッグが入っているのはひとつだけだ。

「前から聞いてみたいと思ってたんだけど、あんたはどうしてレリアさんの傍にいるの?」

 決して手際よいとはいえない慎重な手つきで湯を注ぐ。七部目と八部目の間くらいまで入れると、まだ色の出ないそれをクロムのほうへ差し出した。

「僕が話す義務も義理もない」

 そのカップを手元に引き寄せると、視線も合わせずあしらう。

「けち臭いわね」
「そっちが素直に自分たちの正体を明かせば話してやらんこともない」
「冗談。私のように善良な放浪者、どこを叩いたって埃なんて出てきやしないわよ」

 お互いに相手が素直に答えるとは欠片も思っていない、意味のないやり取りだ。
 ティー・バッグの紐を軽く引いて色づくのを促しながら、この異邦人がこんな中身のない会話のために弟を追い出したりするはずがないと考えていた。
 それは一緒に暮らすようになって見えてきたことの一つであり、分かってきたこともいくつかある。

 クロムにとっては当然のことを全く知らなかったり、逆に妙なところで専門的な知識を持っていたり。そのほかにも、例えば挨拶だとか、喋り方だとか、食べ方だとか。一挙手一投足がクロムたちと何処か違う。
 文化の全く異なる遠い異国からやって来たのだという話は、どうやら信じるしかないようだった。
また、何か目的があるようにも見受けられない。右も左も分からない世界に放り出されたような印象を受ける。

(だからといって、安心できるはずはないが)

 王宮騎士育成特別上級学校ヘルギウスに不法侵入したということは、このラトラナジュという国の威信に関わる問題なのだ。この姉弟の言うように「目が覚めたらそこに居た」のであっても、「誰が」「何の目的で」二人をヘルギウスの敷地内に捨て置いたのかが問題になってくる。
 場合によっては、二人が何も知らないことのほうが危険なのだ。

「お前たちのほうこそ、自分たちがどうしてレリア様に声をかけられたのか自覚はあるのか?」

 弟には編入をすすめ、姉には自分の部下となるよう言った理由をレリアは明かしていないはずだった。
 自身の能力というのは限界も特性も全て自覚していなければならない。故に自らの能力に気付けることが重要だ、というのが彼女の信条だ。そう簡単に高い魔力があることを当人に告げるはずがない。

(弟の方は恐らく気付いている。だが、こいつにも何かあるのかもしれない)

 十分に味の染み出たティー・バックをカップから取り出し、盆に乗ったままの小皿へ移す。
 彼らを庇護することでレリアにとって弱点になるような何かがあるとすれば、自身で気付いている可能性もなくはない。心当たりがあるのなら何か反応があるかもしれないと考え切り返してみたが、正面に座る異邦人は肩をすくめてみせた。

「さぁ? それについてはさっぱり分からないわ。ただ、ここ数日のレリアさんを見て分かったことはある」

 カップは元から二つしか用意されておらず、残った一つは空っぽのままだ。長居をする気はないらしい。
 どちらかといえば会話するときに人の目を見ないクロムと違い、彼女は眼鏡のレンズ越しにしっかりとこちらを見ている。

「私か大和かどっちかは知らないし出来るなら分かりたくないけど、会って数分の私たちに本性を見せてまで手元においておきたい何かがあるんでしょうね」

 間をおいて、遠くに視線を投げる。常ならば力強い光を放っている薄茶の瞳は薄い膜を張ったようで、その一瞬だけ強さが翳った。
 はじめて見る表情はクロムを少しだけ動揺させたが、紅茶に口をつけて誤魔化す。

「研究院内では違うけど、来客中の態度とか学院内での評判を聞く限りレリアさんって容姿端麗才色兼備な若き魔導研究者で将来有望ってだけで、悪い噂は聞かないのよ。魔導研究そのものには反対意見とかあるらしいけど、それとこれとは別。口八丁手八丁で人を丸め込んでもとい脅して、身近に置くような人ではないんでしょう? 少なくとも、普通に見れば」

 クロムはどのような経緯で大和たちがレリアの要求を呑んだのか聞いていないので正確なところは分かりかねるが、和巳の発言を信用するなら『言うことを聞かなければ騎士団に突き出す』というようなことを如才なくかつスマートに突きつけて現状に持ち込んだのだろう。この怪しい自称外国人を信用するまでもなくクロムの敬愛するレリアならやるだろうと確信の持てる流れだ。
 自分もそうだったし、そのとき交わされた約束はいまだ反故になっていない。
 嚥下した紅茶の温かさは身体全体に染み渡るよう広がり、クロムの意図しないところで気を緩ませた。

「――私がここにいると多分大和が帰ってこないわね」

 クロムの意識が過去を遡っているわずかな間に、和巳は唐突に話を切り上げてしまう。思わず振り返ると丁度席を立とうとしているところだった。

「そろそろ戻るわ」

 退室の意を告げる声にも表情にも別段変わった様子は見られず、彼女は椅子を戻してドアへ歩き始めた。結局なにが目的だったのか分からないままである。
 入ってきたときと同じようにあっという間に扉へたどり付いて、片手でドアを開ける。ノブを回す音と共に廊下に灯された明かりが入り込み、くぐる人間の輪郭を曖昧にした。
 そのまま出て行くのだろうとなんとなく見送っていたが、彼女は部屋と廊下の境目で立ち止まった。

「あのさ」

 振り返らず、背中を見せたままで切り出した声音は落ち着いたものだった。

「学校で大和のこと、手助けしてくれてありがとう。今もこうして、私にはよく分からないけど勉強とか教えてくれて、ありがとう」

 心から、と形容してもいい態度でそんなことを口にされて驚く。背中を向けられているので表情までは確認できないが、単なる義務感で言っているのではないとクロムにも分かる。
 戸惑いが先に立って反応できず、こぼれ出たのはいつものように素っ気無い一言。

「……別に」

 そもそも口を開けば口論、という関係に至った原因は最初に和巳の謝辞を跳ね除けたからだ。
 あのとき言った言葉は全て本音で、もしもレリアやクレイオに害のあるような事態に陥れば自分たちには害のないよう切り捨てる――妥協や歩み寄りといったものを許すつもりはない、という意思も込めて強硬な態度を取ったのだが、どうやら懲りていないらしい。

「ただあいつが今のままでは僕が迷惑をこうむるだけだし、ひいてはレリア様のためにもならないと考えたからだ」
「姉として、お礼を言うわ」

 姉、という単語を強調して繰り返される感謝の言葉に、頭の片隅でこれが目的だったのかと納得する。
 しかしそれに続いて投げられたのはからかうような口調と台詞で、ガラリと雰囲気が変わっていた。

「あくまで姉として、であって私個人としては紅白もちごときに感謝なんて欠片たりとてしてないから履き違えないでね」
「だからもちと呼ぶなもちと!」

 反射的に言い返してから、向けられたままの背に覇気がないように感じられるのに気付く。
 ふと、一瞬だけ見せたあの儚い光を思い出し、彼女はレリアに声をかけられた理由が自分ではなく弟にあるのだと気付いているような気がした。

「おまえは、大和が――」
「ひとつ、私たちに関してとっておきの秘密を教えてあげるわ」

 弟の名前に続く言葉を遮る形で妙なことを言い出したかと思えば、私からのお礼だけなんてきっと不服なだけでしょうから、と妖しさをにじませた声と共に和巳が顔だけで振り向く。
 あの殊勝な態度はどこへ消えた、と問いかけたくなる程不敵な笑顔だ。

「私、その昔弟から婚約者を奪ったことのある悪女なの」
「……」

 とっておきの秘密などというあからさまに怪しいキャッチコピーに最初から期待してなどいない。落胆こそしなかったが、質問の続きを口にする気は失せた。
 確かに、こんな礼など不服なだけだろう。
 話をはぐらされたのを感じてクロムは顔をしかめた。

「何の比喩だ」
「それを考えるのはワトソン君、発言した人間でなく発言を向けられた人間なんだよ」

 例え話であることを否定しないまま、にたりと口元を綺麗に歪めて少女は部屋を出る。クロムを不愉快な気分にさせたことをひどく喜んでいるような、軽い足取りだった。

「……馬鹿馬鹿しい」

 眉をよせながら茶を口に含む。苦々しい心境に反して、紅茶は苦味の少ないものである。
 大和が軽食の乗ったお盆を手に戻っても、婚約者云々の話をクロムが尋ねることはなかった。




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お小言
はい、今年も開設記念が近づいてきました!
その前に文章が浮かばない自分の頭に負けそうです隊長!
今現在午前四時であります隊長!