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 いつも水の気配と一緒に付きまとう、それは暗い不安だった。

title/初、午後授業。


 たった一度、それも遠目に見たことがあるだけなのに強く印象に残る黒尽くめの教師は、ひたすら無言のままに廊下を突き進む。大和の手首を掴んでいる力は弱まることがなく、言葉の代わりに背中で怒りを表していた。
 その怒りのためか実際より何倍も大きく見える教師の姿を目にして、すばやく教室に隠れる生徒や思いっきり視線を逸らす生徒がちらほらと見受けられる。

(なにが、なんだかっ)

 自分の置かれた状況というものが全く理解できず、引っ張られるままに歩く。何処に向かっているのか分からない混乱とペースの違う歩調のせいで、今にも足がもつれそうだ。
 時折すれ違う生徒から同情的に視線を向けられているのを感じながら、大和の思考回路はパニックで断絶されているのか何も考えられない。

(オレ、何かまずいことしたっけ!?)

 最初は、先日中庭を突っ切ったのがばれたんじゃないかとビクビクして、その次にあのおせっかいな水精霊がまた何かしでかすのではないかとヒヤヒヤした。
 幸いにも寄ってくることはなかったが、今もそれなりに距離を置いてついてきているのが分かるために安心は出来ない。

「あ……あのっ」

 ようやく上げた声は震えないようにするのが精一杯で、どもりやつかえは抑えられなかった。
 それっでも視線が向けられることはなく、一定のスピードで廊下を蹴る足は止まる気配もない。

(うぅ……く、くじけちゃいけないっ)

 もつれそうな足を何とかシラーの歩調に合わせ、再び口を開く。

「何処に行くんですか? オレ、午後から用事が……」
「私の言葉が聞こえなかったのか?」

 地を這うような、低い、力のある声だった。反射的に肩をすくめてしまう。
 そんなことを言われても、パニック状態だった大和は当然ながらこの教師の言葉を覚えているわけもなく。こうなる前の会話を必死に思い出そうとするが、クロムとボードゲームについて話していたところまでしか記憶は保存されていない。
 返事のできない大和をシラーは一度だけ振り返った。
 その艶のない薄青の瞳は相変わらず冷たかったが、怒りの色は随分とあせていた。

(……なんで、オレは今連行されているんだろう)

 掴まれたままの手首は痛みを訴えていたが、シラーの冷静な双眸は大和にも落ち着きをもたらした。一気に現実へ引き戻され、浮いていた足が地に着いたような。

(ていうか、どこ行く気なんだ?)

 思考が通常時の回転速度を取り戻したところで軽く周囲を見渡すと、大和の向かうべき教師棟からはだいぶ離れていることが分かった。というか逆方向な気がしないでもない。
 編入する前日クロムに案内されたのでなにがあるのかは知っているが、生徒となってからは一度も行ったことのない、その先にあるのは――。

「訓練場に向かっている」

 大和の心を読んだかのように的確な答えが、薄い唇から冷ややかに告げられた。視線は既に進行方向だ。

「その力は放置しておくのが危険なレベルだ」

 続く言葉は相変わらず冷ややかだったが、大和の記憶に引っかかった。そういえば、そんなことを言われた気がする。
 あの時は動転していて聞き逃してしまった。しかしその言葉の指す内容はいくら鈍い大和でも理解できる。

「なに、を……」

 自由なほうの手で思わず自分の胸を掴んだ。心臓の鼓動は早く、背中を嫌な汗が伝う。

「心当たりはあるようだな」

 同じように黙り込むのでも、その沈黙に先ほどとは違う空気を見出したのだろう。シラーはもう一度だけちらりと振り返り、大和の表情を見て断じた。
 ――知られている。ばれている。
 そう悟ってからの行動は早かった。腕を引かれるのはそのままに、今度はどもりもつかえもない声音で言う。

「姉が」

 知られたくない。使いたくない。知りたくない。
 渦巻く感情に反して言葉は驚くほどスラスラと出てきた。

「オレが行かないと、姉が心配します。後日では駄目ですか」

 姉を言い訳に使うのは申し訳なかったが、不審に思われるのは確かだ。一瞬シラーの肩が跳ねたように見えたが、何故なのかは分からない。
 大和は自分のことでいっぱいいっぱいで、周りのことを一々気にしていられなかった。

(姉ちゃんにばれるのは、なるべく後がいい)

 出来ればずっと隠していたい。少なくとも今なら、後ろからついてきているクロムを口止めしておけば時間稼ぎにはなる。姉と学院の間にある直接のかかわりは自分たち二人とクレイオぐらいのものだ。

 使いたくない。こちらとあちらの決定的な差異。手を染めたら戻れない、はじかれる感覚。
 知られたくない。本来なら得るはずのない力。まとわりつく精霊、いまだ慣れない異世界。

 誰か、大和の自意識過剰だと笑い飛ばしてくれないか。

(この世界に来た原因が、自分にあるかもしれない、なんて)

 そうなれば姉は単に巻き込まれただけだ――やめてくれ。漫画の読みすぎだと、ゲームのやりすぎだと、誰でもいいから慰めてくれ!
 還る方法などひとつも見つかっていない現状で、単なる予測の一つでも、それは聞き入れたくない話だった。

「お願いです」

 訓練場の手前に着いたあたりでもう一度懇願すると、シラーは足を止めた。黒衣を翻して大和と向き合う。

「私の生徒となる君に、最初に教えておきたいことがある」

 感情を抑えられた瞳に怒りは見えず、声の低さもそれまでとは違いゆったりとした印象を与えるものだった。
 午後の授業が始まるにはまだ少し時間があり、訓練場にいる生徒の姿はまばらだ。シラーの言葉を聴いているのは大和と、足音もなくついてきたクロムだけ。
 肌を刺すような沈黙を破ったのは勝気さの滲む高音だった。

「シラー教官!」

 切り離されたような静けさの中にいた大和たちは、いっせいに声の発生源へ視線を向ける。

(……サンゴ?)

 振り向いた先にいたのは二人の女生徒だ。片方は同じクラスなので見覚えがある。あの近道を教えてくれた生徒で、名前は確かサンゴ。
 彼女はどちらかというと大人しい性格なので、シラーを呼んだのはもう一方の生徒だろう。他クラスの人間だった気がする。
 声と同じように、表情やしぐさにも勝気さや自信がうかがえる少女だった。正反対の印象を与える二人は大和たちとの距離をつめてくる。

「……?」

 その途中でサンゴは大和の存在に気付いたらしく、軽く首をかしげた。しかしそこに漂う空気を悟ったのか、もう一人の女生徒の腕を掴み近寄ろうとする動きにストップをかける。
 勝気そうなほうは不満もあらわにサンゴを振り返った。サンゴは軽く首を振る。

「どうしたんだ、サンゴ」
「お話の最中よ、少し待ちましょう」

 そのやり取りを見届けると、シラーは大和へ視線を戻した。
 今度は正面から見据えられても、大和は恐怖を抱かなかった。ただ冷たい、けれどどこか真摯な薄青の色をじっと見返した。

「危険というのは」

 囁きとまではいかない小さな声で、彼は切り出した。
 その声はもしかしたらクロムにも聞こえているかもしれないが、距離を置いてこちらをうかがっている女生徒二人には聞こえないだろう。

「いずれ意図しない所で大切な人間を傷つける――そういう意味だ」

 言外に、姉のことを言われているような気がした。
 視線を合わせることに耐えられなくなり、大和は目を伏せる。

「わかり、ました」

 了承の言葉に覚悟はなかった。ただ、いつも抱く諦めがあった。

※※※

 カラリと晴れた空は清々しかったが、このところ強さを増すばかりの太陽はきっと肌を焼くだろう。それに比べ、自分がいるのは屋外に面した廊下とはいえ屋根の下だ。日陰にいればそれなりの涼は得られる。

(覗き見にはうってつけの条件だな)

 道化めいた不真面目さが売りであるエレク・トロイの顔に、人の悪い笑みが浮かぶ。
 訓練場は屋外にあるので、様子を見るための場所を確保するのは簡単だった。
 長方形の形で整備された訓練場は、その四辺のうち二辺が校舎と接し、残りが森へ繋がった造りをしている。
 エレクがいるのは校舎側の二階で、外にひらけた廊下だ。

(何処かな何処かなー)

 身を乗り出すようにして手すりに寄りかかり、訓練場に集まる同じ制服の群れを観察する。
 エレクが手にしているのは愛用の双眼鏡で、二階から眺め下ろすこの位置からでも生徒一人ひとりの顔が判別できた。

(黒髪、黒髪の四年……)

 双眼鏡を訓練場のあちこちに向けて、事前に仕入れてきた特徴を目印に探し始める。
 四年、と聞くとどうしても黒ではなく白を探してしまうのだが、今日の午後に訓練場を使うのはシラー・ミディオン教官だ。授業を受けるのは白をまとう武術生ではなく、黒をまとうべき魔術生だ。
 あいにく今年の四年生には、エレクと同じ黒の長衣を許された生徒は存在しないが。

(黒髪のもやしっこ……お、あれか?)

 目的の人物を発見して、橙と茶の混じった瞳にきらりと星が走る。
 双眼鏡の焦点を絞り、見覚えのない生徒の顔を拡大する。少し左にずらすと、季節を問わず暑そうな格好をしている魔術教官の後姿も捉えることができた。
 相変わらず、貴族出身とは思えないような赤茶けたざんばらの髪だ。自分を貴族だとは思っていないのかもしれない。

(まぁ、生徒のほとんどが知らんような話だけど)

 しかも単なる貴族ではなく、貴族の中では最上位である三公家の出身なのだ。生徒が知らないのは、当人が隠していることと苗字が違うからというただ二点の理由に尽きる。

(それほどまでにシャルスターが嫌いなのかね)

 双眼鏡から目を離しても、一点だけ彩度が落ちたような黒ははっきりと見える。何故黒を好んで着ているのかまではエレクも知らない。
 三公家、とはその名の通り三つの一族だ。功徳のブラフマン、武力のシャルスター、そして知恵のサリエ。
 決して傍系というわけでもないのにわざわざ婿に入り苗字を変え、縁を切った理由はエレクの好奇心を大変刺激した。スキャンダルの匂いがする。

(とはいえ、今はそんなことより)

 自分の好奇心を追い払い、エレクは再び双眼鏡を覗き込んだ。
 当初の目的である少年の全身が見えるように焦点を調節する。
 何故、一般の生徒なら知らないような話をエレクが知っているのか。何故、授業を抜け出してまで四年の授業を見にきたのか。それは、

(シラー教官が鬼のような形相で生徒を訓練場に、なんて大ニュースを逃しちゃ、ヘルギウス一の情報屋の名折れだもんな)

 という、自己満足に基づく。
 情報屋というのはエレクが勝手に名乗っているだけで、情報収集は単なる趣味である。
 扱う魔術もそれを反映していて、得意としているのは土系だ。土は汎用性の高いことで知られる系統の魔術だが、その中でも自分が扱うのは専ら気配を隠したりなじませたり、とかく隠密関連の方向に特化したものだったりする。

(んー。表情が硬い……上手くいってないみたいだな)

 双眼鏡を通して見えるのは、冴えない表情の少年だ。シラーの黒衣とは違う艶のある黒髪に、薄墨を流したような瞳はどこか諦観の色を帯びている。
 幼い顔立ちが浮かべるにしては暗い視線。その先にあるのは、木を削って作られた杖だった。少年の目線の高さほどまである杖は浅く地面を突き刺し、両手でしっかりと握られている。

(これはまた……)

 エレクは橙の双眸をすっと細める。
 入学当初から武術そっちのけで魔術を磨いていたので、一目で分かる――あれは自分の中にある魔力の流れを感じ取り、制御する方法を学ぶための訓練だ。
 シラーに連行されたのは編入生だと聞いていたし、エレクに見覚えのない生徒という時点でその情報は確信していたが、あの指導内容を見るにどうやら魔術を詳しく知らないらしい。

(あーあー、ありゃ苦労するな)

 貴族の子弟が多く集まるここヘルギウスであっても、入学時点で自分の魔力を把握できている生徒は少ない。特別才能があるとか、よっぽど高度な教育を受けているかの二種類だ。

(一年のときから徹底的に仕込んで、四年になってようやく応用に移れるくらいだし。あの様子じゃ使い物になるまでだいぶかかるなぁ)

 ここにくるまでエレクが立てていたいくつかの仮説が頭の中で消去されていく。即戦力になるので実力を見る、とか。そういった類の仮説だ。
 とはいえ、シラー教官が彼に向ける視線は尋常でない。教職につく人間として、なにかの使命に燃えているように見える。

(何か秘密があるのか……そもそも、編入してくること自体妙な話なわけだし。身元の保証人はいても、その肝心の身元をまだ掴んでないんだよなー)

 双眼鏡から目を離し、溜息をつく。自分の情報網もまだまだだ。
 身元の保証人がヴェルデライト・E・クレイオ教諭であることを突き止めるのにさして時間はかからなかったのだが、そこから先が問題だった。

(話が急すぎるんだよな。確かに教諭はもともとラトラナジュの人間じゃないし国外に知り合いがいてもおかしくはないんだけど、海向こうから来たとなるとまた次元が違ってくる)

 ラトラナジュは交易が盛んなほうの国だが、海を越えての親交はない。それはラトラナジュだけでなく、この付近の国全体で言えることのはずだ。

(やっぱり情報を得るには当人に近づいてみるのが一番いいんだろうけど、もうしばらくは静観しといた方が得策っぽいんだよなー)

 いろんな意味で有名なエレクだが、騒動の渦中にいたいとは思わない。その渦を外からのぞきこむのが自分の役割だと信じている。

(にしても、だ)

 情報に対する考察をいったん終了して、今度は情報を収集するべく再び双眼鏡を構えた。
 否が応でも目立つ赤毛と黒髪の二人組は、背後から射抜くような視線で見つめられていることに気付いているのかいないのか。

(気付いてなさそー。顔が本気だもんな)

 案外、教官は気付いていながら放置しているのかもしれない。
 シラー・ミディオンが結婚する前になにをしていたかというと、ずばり軍人だ。それもかなり優秀な。気配には聡かろう。
 彼はかつて高潔の騎士アダマス・サリエの上官であり、戦地での教官でもあった――いくつかの書籍には名を残しているはずだった。

(みんな野次馬根性丸出しだねぇ)

 訓練場に集まった魔術生たちは自習を言い渡されているのか、授業のルールで決められた三人一組というチーム構成で身を固めている。
 ただしチームで集まっているからといって勉強しているわけでもなく、教科書や魔石を手にしつつもその視線はしっかりと教官たち二人に向けられていた。

(こりゃあ別の意味でも苦労するな)

 双眼鏡でぐるっと見渡すと、好奇心で輝いたいくつもの瞳が無遠慮なまでに編入生へ注がれ、ひそひそと耳打ちしあう様が良く見える。

(四年の魔術っこたちは、武術っこたちと比べてユルユルしてんなぁ)

 仮にも教官の前であるのに、あそこまで堂々と授業に打ち込んでいないとは。
 特待生の有無も関係しているのかもしれない――武術生たちは、白髪の武術特待生が授業のときに見せる凛々しい姿勢に引きずられる形で緊張感を保っている。五年の武術生も似たようなものだ。五年の魔術生は……エレクの不真面目さを正すように、皆よってたかって生真面目に行動している。

(うん、やっぱり特待生の存在って大きい)

 とりあえずそういうことにしておこう。
 ひとつうなずき、情報収集ならぬ観察を再開する。集団の中で、好奇心とは異なる視線を向ける二人組みに焦点を合わせた。

(魔術特待生候補の二人、だな)

 エレクの情報網だって伊達ではない。他学年の情報だってばっちり掴んである。魔術特待生候補のアイズとサンゴ――どちらも貴族出身だ。ただし、三公家ではない。
 事前に仕入れた情報と実際に合同授業を受けたときの感想としては、どちらが魔術特待生になってもクロムには劣るだろう、というものだった。
 アイズは緑がかった黄色の瞳を吊り上げて、唇をかみ締めている女子生徒だ。金と茶の入り混じった髪が逆立っているような幻覚を抱かせるほど、その眼光は鋭く、怒りに満ちていた。

(アイズはなんつーか、プライドが無駄に高いんだよな。風の魔術をあそこまで扱えるのは武器になるが、そのせいかどうも他の属性に対する認識が甘いというか、自分が一番というか)

 風の魔術を扱える人間は希少で重宝される場合が多い。だからといって他の属性を軽んじることが許されるわけではないし、自分の能力に慢心していいわけではない。
 今にも食って掛かりそうなアイズを傍らで止めているのは、もう一人の魔術特待生候補。空色の髪を左右で束ね、赤みの強い桃色の瞳で不安げにシラーたちを見ていた。

(サンゴは……性格的には問題なさそうだけど、能力が安定してないのがどうもなぁ。それも、本来なら一番安定して使える土系の魔術があれだけ揺らぐんだ。特待生にするには不安が残る)

 安定したときの彼女は土系の、特に防御に特化した魔術が素晴らしいと聞いている。逆に不安定なときは、自分の足場を崩しかねないらしい。

(二人とも、かわいそうっちゃあ、かわいそうなんだけどなぁ)

 心の底からではないが、多少は同情する。
 クロム・ディアーズロックという異分子さえいなければ、おそらく二人のうちどちらかが特待生になることに誰も異を唱えなかったはずだ。
 入学当初から剣の腕前は一級品、火の魔術を使わせれば右に並ぶものはいない。エレクの相方ロサによれば、剣術も魔術も、トップであるための努力は惜しんでいないという。

(クロムもプライドは高いけど、慢心はしてねーしなぁ。魔術だって、波はあるけど許容範囲内の揺らぎだ)

 要するに完璧なのである。あの年齢にしては不自然なほど場慣れした立ち回りも、相手に実力を見せ付ける方法も。

(身元も完璧、だしな)

 高貴な血を引くという意味ではなく、その出自が全く分からないという点で、だが。
 彼の身元引受人が魔導研究院院長であることは秘密でもなんでもない。ただ、身寄りのない子供を引き取った、という話で行き詰る。さりげなく当人に探りを入れてみてもあっさりとかわされた。

(あの目の色は手がかりになるのかならないのか……)

 入学当初、彼が注目されていた理由はその実力ではなかった――特待生となる前から全校生徒に名を知られていたのは、燃えるような紅い瞳が意味するところが大きい。
 ぐるぐる考えながら特ダネの元ではなくその周囲にちらばる生徒を観察していると、エレクの耳がカツ、という小さな音を拾った。音は同じテンポで連続して聞こえてくる上に、徐々に大きくなっていく。

(足音だ。やべ、誰か来る!)

 エレクのいる二階に誰かが近づいてきているのは確かだった。
 建物の設計上、音が篭らず足音を聞き逃すことが多いのだが、今回はラッキーというべきか。

(おぉっと、早いとこ隠れないと)

 手近な教室――空き教室で、普段誰も使わないことは調査済みの――に飛び込んだ。がらんとした教室には身を隠せるようなものがないため、入口付近の壁に張り付いてやり過ごす。
 ちょっとでも覗き込まれたら訓練場ウォッチングは強制終了。ペナルティは反省文十枚だろうと予想し、息を潜める。

(反省文なんて何枚でも書いてやるけど。慣れてるし)

 エレクが嫌なのは訓練場ウォッチングが打ち切られることだ。まだ得られる情報があるはずなのに、ここで引くなんてもったいない。
 心臓は落ち着いているが背中にじわりと汗をかいていることを感じながら、ただ誰かが廊下を歩く音に耳を済ませる。
 ドアのない部屋と庭に面した廊下は、エレクにとって救いであり災いでもあった。

(覗き見にはうってつけだが、隠れるのはどうも面倒なんだよなぁ)

 学術都市ベリルは建国当時からある街で、その歴史はそのまま王宮騎士育成特別上級学校ヘルギウスの歴史でもある。さすがに校舎は老朽化するので建替えや修繕を繰り返してきたが、基本的な造りや外観は伝統にのっとっており、部屋と部屋を繋ぐ廊下が室内にないのもそのためだった。

(大広間とかならまだしも、全室扉がないのはさすがに時代遅れだっつーに)

 エレクは比較的時代遅れな都市の出身なのでまだマシだが、整備の進んだ都市からヘルギウスへやってくる人間は多い。さぞや気苦労の耐えないことだろう――あくまで他人事でしかないが。
 足音が、すぐ近くで止まる。

(終わりか、終わりなのか生の情報収集……!)

 その一点にのみ悔しさを覚えて唇をかみ締める。廊下で動きを止めた人影がエレクのいる教室に意識を向けているのを感じ、胸中で悪態をつきながら覚悟を決めた。

「……なにをやってるんですか」

 あきれた口調でエレクの頭ひとつ分の一から覗き込んできたのは教師ではなく、意外な人間だった。
 白い髪、白い短衣、白い肌、幼さを無理矢理抑えたような低さの声音。そして何より紅い双眸。

「お、なんだクロ坊。お前だったのか」

 なんだよ隠れる必要なかったじゃん、と漏らせば、隠れるような行動をしている先輩が悪いです、といつものような生意気な態度で返される。が、そんなことは一々気にしない。
 それより、今は彼が貴重な情報源にもなることが重要だった。クロムなら、同学年の魔術生の授業における魔術顧問の動きが気になるはずである。

「いやさ、ちょいと気になる噂が飛び込んできたんで。ちょっとした確認」
「気になる噂、って……」
「ちょっとこっち来てみな」

 廊下へと出て、手すりのほうへ手招きする。寄ってくる動きだけ確認すると、今一度双眼鏡を覗き込んだ。
 訓練場は相変わらず、シラーから直接指導を受ける編入生とそれを遠巻きに見ながら通常通りの授業をやっている(ふりをしている)生徒によって構成されていた。
 黒髪の生徒の表情に変化はなく、上手くいっていないことにも変わりないらしい。

「先輩、なにをするつもりなんですか?」
「まぁまぁ、とにかく見てみろよ」

 ほい、と一声かけて双眼鏡をクロムに渡す。何度か貸したことがあるので使い方は心得ている後輩は、迷わず双眼鏡を訓練場に向けて覗き込んだ。

「黒髪のひょろ長いのが見えるだろ? この前編入してきた男子」

 同じクラスであることも調べはついているが、今は黙っておく。
 不自然でない程度にクロムの表情を観察する。編入生の何かを見定めようとする、ひどく真剣な視線だった。
 そのままの状態で、エレクは横から話しかける。

「シラー教官がすごい勢いで引っ張っていった、となればもう確かめに来ない馬鹿はいないぜ」
「……先輩しかいませんが」
「クロ坊がいるじゃん」

 双眼鏡をのぞいたままの表情がぴくりと動き、目が合う。一瞬で逸らされた視線は再び双眼鏡へ戻った。

「あの様子を見る限り、教官かなり本気だぜ?」

 そこまで言うと、クロムは双眼鏡を覗き込むのをやめた。ぐい、と押し付けるようにつき返される。視線はこちらに向けられない。

「……」

 クロムは押し黙り、訓練場を見下ろす。やはりなにかを見定めようとしている目だった。
 エレクの頭の中ではいくつもの情報が交錯しては取捨選択され、推測を立てては否定していくという行為が繰り返されている。
 次に口を開いたとき、クロムの口調からは普段エレクに対するときに聞く倦怠感は失せ、生意気の欠片もなかった。

「あいつ、魔術特待生になるんでしょうか」

 クロムは双眼鏡のレンズを通さず、紅い瞳で直接二人の姿を見つめている。
 なんの表情も見せない顔と落ち着いた声音からは、なにを考えているのかうかがえなかった。

「さぁ。そればっかりは教官が決めることだし」

 特待生とはいえ一生徒である自分に決める権限も意見する権利もない。肩をすくめて流したが、それはエレク自身も考えていることだった。

「ま、どう転ぶのかは当人次第だけどな」

 色彩も長さも、自分がまとうものとは正反対の短衣を視界に映しながら、エレクは軽く言い放った。
 どのみち、魔術特待生は橙月(とうづき・八月)までに決めなければならない――アイズ、サンゴ、そして突如現れた編入生。この誰かから決まることは確かだろう。

(ロサにとってのクロム……みたいなものな訳だし、出来れば円滑にいきたいな)

 それがどういう存在になるのか、先輩後輩の感情に疎いエレクには想像できなかった。アイズでもサンゴでも編入生でも、それは同じこと。
 ただ、真剣な表情で訓練場を見下ろす小生意気な後輩がようやく相棒を得ることができるのだと考えると、それは少しだけいいことのように思えた。




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お小言
遅筆が全く改善されません。
というかコミカルな雰囲気になかなか行き着きません。
小説を書くって難しいなぁ(今更)。