世の中全部自分の敵だと思うことが時々、ある。
 全部不愉快で自分の思い通りに行かなくて、でも思い通りになったらなったで案外つまらなくて逆に腹が立ったりする。
 世の中は理不尽で矛盾に満ちているが、それ以上に自分の考えが理不尽で不条理だ。
「だっせぇー……」
 ――こんなこと現在進行形で考えていることも含め、今の状況が。

title/Cherry


 熱射病で倒れるのではないかと思うほどの日差しが、空から照りつける。
 身体のあちこちで汗が流れるのを知覚する。
「ケータイ落とすなんて馬鹿だ……」

 重い自転車のペダルを懸命にに漕ぎながら、炎天下の中坂をのぼる。
 アスファルトを焦がす熱線はひどく目に沁みるうえ、かなり近い位置からセミの鳴き声が幾重にも重なって聞こえた。 自分を取り巻く全てが、視覚聴覚全てに暑さを訴える。
 夏だ。
 ただ漠然と、それだけを感じる。

「あーもー、やっぱ外になんか出かけなきゃ良かった」

 悪態をつきながらも、ペダルを漕ぐ足は止めない。
 ギシリ、ギシリと音を立ててロースピードで回転する車輪が憎い。
 どうして夏なんてあるんだ。夏休みがあるのは嬉しいが、そんなもの社会に出ればなくなってしまう。 自分が社会人になったその年から夏なんてなくなればいい。地球のオンダンカをとめよう。

 だから、今すぐ。
 戻ってきて愛しのケータイ。

 右ポケットの重みがなくなっているのに気付いたのは、ちょっとコンビニまで出かけていたその帰り。 家に着く直前、ノンブレーキで気持ちよく坂を下り終えた後のことだ。

「……よりによって外で落とすなんて」

 三ヶ月ほど前に買い換えたばかりの新しい携帯電話。スカイブルーが目にも鮮やかな最新モデルだ。
 せっかく大事に扱ってきたのに、道路に落としたら確実に傷がついてしまう。後悔してももう遅いけど。

 ゲンダイジンはケータイがないと生きてけない。そんなことを誰かが言ってた。多分事実だ。
 っていうかケータイなくても生きてける人間のほうがおかしいと思う。

 携帯を持たず生活する人間に一瞬だけ思い当たって、すぐに振り払う。今はそれ所じゃない。早く拾いに行かないと。
 コンビニを出た時は確かに手元にあった。違和感に気付いたのは坂を下り始めた直後だから、おそらく上った先に 目当ての品はあるだろう。
 人通りも車どおりも少ない場所なので、踏み潰されて大破、なんてことにはなってないはずだ。

 アレ? と感じた瞬間、すぐにでも引き返せばよかったと思う。
 けれど坂を下るときの爽快感だとか、ブレーキ利きにくいし下まで行って戻ってきても変わりないよな、とか。
 この坂事故に合いやすいし運転に集中しないと、とか。
 そんなことを考えているうちに、あっという間に下まで行き着いてしまった。

 優柔不断、なんて言葉が頭に浮かぶ。
 こんな小難しい言葉、前まで知らなかったのに。 『あいつ』が妙なことわざとかばっかり使って話すから、覚えてしまったではないか。

「……あちぃ」

 強く握ったハンドルが汗でぬめる。
 真夏の太陽は勢いよく燃え、快晴と呼ぶにふさわしい青空の中天に座していた。 どうしてだろう、家を出てからずいぶんと時間がたつのに位置が変わらないように思える。
 おそらくやつは悪意を持ってそこにずっと居座り続けているのだ。
 そうしてあくせくはたらく人間を高みから見下ろして愉悦に浸って、 気が変わったら今度は少し下に移動して寒さに凍える人間を睥睨して、自分の存在の強さを誇示し続ける。あれは悪意の塊だ。

 そんなつまらないことを考える間にも、ペダルを漕ぐ足は休めない。
 坂はまだ緩やかだ。押して歩くより普通に漕いだほうが楽に思えるが、そんなことを言っていられるのも今のうちだけ。 太陽が悪意の塊なら、この坂は魔物と呼ぶにふさわしい。

 小学校時代は通学路でもあった坂道を、長年の恨みを込めて睨んだ。

 車道は狭く、二台がぎりぎりですれ違えるかどうか。左右を家々が囲んでいるので、圧迫感だけが強調される。
 陽炎が見えるほど距離は無く、しかし坂は終わるのではなく角を曲がったらまた路は伸びていた。 坂の傾斜自体はむしろ増す。
 その先にも曲がり角、その先にも坂、そしてまた曲がり角。
 短距離でほぼ直角に曲がり続ける坂は、平らな路に落ち着けるまでに角が六つ坂が七つ。近道もない。
 直線ではない分余計な体力が必要になる。
 マウンテンバイクならギアを変えられるが、生憎と自分が乗るのは安物のママチャリだ。そんな洒落た機能はついていない。

 いつもは全体の3分の1――三つ目の角の先にある第4ステージ――で、手押しに切り替える。
 今回は上に行って戻ってくるだけなので、重い自転車はここに放置して上る、なんて手もあった。おあつらえ向きに、 右手にはタカハシさん宅の白いコンクリートで作られた車庫が見える。
 それでも意地になって、自転車を降りなかった。少し前のことを思い出した。

 この坂を一度も自転車から降りずに上れるか、と『あいつ』が訊いてきた。
 虚勢を張る必要も無かったので『無い』と即答した。挑戦したことすらないと軽く告げると、 『じゃあ、あんたはこれからもずっとこのままだ』と意味不明の答えを返された。
 訳が分からないなりに馬鹿にされたらしい、ということは理解できたので当然のように自分は怒った。
 それで覚えていた。
 嘘だ。それ以来あいつと言葉を交わしていない。会ってもいない。最後だから、よく覚えていた。

 気付けばタカハシさんの駐車場も家も通り過ぎ、次の角が目前に迫っていた。第5ステージ。

 見返してやる。

 正体不明の苛立ちが募り、凶暴な感情はそのままペダルを漕ぐ足へと伝わる。
 通学で使うからこんなダサいママチャリはいやだ、と強硬に主張したにもかかわらず愛車となってしまった赤い自転車。 乱暴に扱っているせいかあちこちにへこみや傷があって、みるからに痛々しい。
 まるであんたみたいだ、と『あいつ』が言っていたのを思い出す。
 ぎり、と唇をかんだ。苦い、という感情に反して錆びた血の味が少しだけ広がった。
 なんだって『あいつ』のことばかり頭に浮かぶ?

 狭さと急勾配が最も顕著な第6ステージ。

 自分を取り巻く全てのものに嫌気がさして腹が立つ。
 太陽も、空も、夏も、自分も、『あいつ』も――。
 あんなのに負けてたまるか。

 ペダルを漕ぐ足に、再度力を込める。

「――っだあ!」

 気合とか根性とか、そんな言葉はあまり好きじゃない。正直恥ずかしいし、カッコ悪いとも思う。
 だけどイマはそんなこと気にしてる場合じゃなかった。
 ただひたすらに、見返したかった。上りきりたかった。

 あいつはいつも、本当のことを言う。他人に伝える気があまりないから分かりづらい言い回しをするが、 あいつの言うことは正しい。正しくて、痛い。
 その言葉に何度も傷つけられて、だけど離れがたくて。でもあいつの表情や態度はいつだって同じで、自分が傷つけることなど 出来はしない。
 不変の存在。影響など与えられない。
 遠く絶対的な距離があった。
 あると、思っていた。

 強く握りすぎて白くなった手がいい加減痛みを訴える。一瞬だけ放して、また握った。
 汗なんて気にしない。
 むしろ一瞬だけ抜けた力を取り戻すように、手足により一層の力を込めた。

(のぼって、やる)

 最後に会ったときの顔を思い出す。
 歪んだ目元、引き結ばれた唇、それでも逸らされない視線。
 あれは。多分あれは。
 泣きそうな、顔。

 胸が痛む。
 どうしてあんな酷いことを言ってしまったのだろう。後悔ばかりが胸に押し寄せて締め付ける。けれど同時に不思議だ。
 『あいつ』は表情豊かなほうではないが、しかし無表情というわけでもない。けれど傷ついた顔を見たことなんてなかった。
 どうして、どうして、どうして。
 いつもなら軽く流すのに? 他人の言なんて全く耳に入れようとしないのに? どうしてあの時、そんな、反応をしたんだろう?
 わからない、わからない、わからない。
 ぐるぐる回る答えにたどり着かない迷宮思考。それでも足から力は抜けない。

 ふっ、とペダルを踏む足が軽くなった。

「わっ」

 立ち漕ぎで上半身にも力を入れていたため、反動で前のめりになる。

「わ、わ、わ」

 惰性で数メートル進みながらバランスをとり、とうとう耐えられなくなって足を着いた。
 固いはずのアスファルトがやわらかく感じられる。少し地面から浮いたような感触。

「……」

 驚いて、地面とハンドルばかり見ていた顔を上げる。

「――あ」

 整わない呼吸、痛む喉、速い心拍。
 それでも、のぼりきった先に青い筐体はあった。
 アスファルトに、打ち捨てられたかのように放置された携帯電話。スカイブルーが目にも鮮やかな最新モデル。
 じっと見つめて考える。携帯についてじゃない、『あいつ』のことを。

 こちらの言葉で傷ついたのなら――自分の言葉は、ちゃんと、届いているのだろうか。
 そして、思う。
 もしも、あの罵詈雑言が届いているのなら。
 ごめんなさいも、届くだろうか。

 酸素の回らない頭で漠然と考える。
 日差しは相変わらずキツくて肌を焼いたが、流れる汗を不快には思わなかった。
 サドルから完全に降りて、少し悩む。自転車は重いから置いていきたい。
 いつもならその欲求のまま適当に放り出すのだが、今日はどうしてもそれが出来なかった。当然のように車輪止めは壊れている。
 仕方なく道路へゆっくりと腰を屈めて倒していると、自分がその自転車を労わっているのだとようやく気付いた。
 不思議だ。労わるなんて単語を教えてくれたのも『あいつ』だった。

 自転車の傍らで着いていた片膝を地面から離して立ち上がった。 まるで青空を映したように光り輝く携帯が、別の意味で光って見える。
 ゆっくり、ゆっくりと近付いた。これが夢ではないのだと確かめるように。
 この間アドレスは消してしまったから、履歴から辿らなければならない。面倒だが、自業自得だ。
 メールは使うが電話はあまり使わないので、着信のほうに残っているだろう。『あいつ』はメールを打たない。

 なんと言って電話しよう。

 上手い言葉は思いつかなかったが、今なら言えると思った。



 心拍は、まだ少し速い。

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お小言
語り手の性別、「あいつ」との関係性などは読んだ方が各々で判断してください。
出来るだけどちらにも取れるよう書いたつもりですが、そう思えなかったらすみません。