犬が好きな人は、権力志向。
猫が好きな人は、芸術家肌。
そんなお話、知っています?
天窓から差す柔らかな光は、暖かいと呼ぶには少し心もとなくて。だからこそ背中に感じる体温を、よりいっそう暖かいと長屋は感じた。
秋の入りに思い切って髪を短くしたせいだろう。とくに首筋の辺りが冷たかったが、じんわりとしたぬくもりはそれを忘れさせるに十分な効果がある。
家主の許可無く拝借した椅子を、同じ型の椅子に座りイーゼルと向かい合う青年の背後にしつらえ、背中合わせになるよう長屋は座っていた。
(まだ、かな)
かじかむ両手に息を吹きかけながら、視線だけを動かして部屋の中を見渡した。
室内は雑然としていたが、人に悪印象をもたれるような乱雑さではない。
長屋の家のリビングより明らかに広いが、中央にぽっかりとスペースが開いている以外は所狭しと物が並び、ときには積まれているために本来より狭く感じてしまう。
使用可能な面積は総合すれば二十畳弱……どちらにしろ広いことに変わりは無い、か。
長屋はこの部屋が好きだった。
アトリエ、という名称が一番しっくりくるだろう。
コンクリートの床の上にこぼれた絵の具のあと、一見無秩序にばら撒かれているが当人からしてみれば規則的に『置いて』あるスケッチ、同様に散乱した鉛筆、絵筆、それに刷毛(はけ)。
ここに入り浸るようになってから、どれくらい経っただろう。
油絵の具のにおいにも、ずいぶんと慣れてしまった。
「いつまでいるつもりだ、長屋」
唐突に、背もたれが声を発した。
筆を止めたということは、ひと段落着いたということだ。長屋は緩むほほを止められず、声に笑みを乗せて返事をした。
「やだなぁ、そんなの高橋さんが終わるまでに決まってます」
高橋――長屋の背もたれにして、この部屋の持ち主であり、画家である青年――を待つ時間というのも決して嫌いではないが、それ以上に会話をすることが長屋は好きだった。
だから、他愛も無いことを口にする。
「ていうか寒いですよ、ここ」
「寒さごときに負けてたまるか」
「負けず嫌いですよね、高橋さんって」
無駄に、という余計な一言は飲み込んでおいた。
「矜持が高いと言え」
「そうですねぇ。プライド高いですもんねぇ。エッフェル塔並み」
「馬鹿を言うな」
心の底から心外だと言わんばかりの不機嫌な声。
「エベレストにも負けん」
不敵にではなく冗談でもなく、高橋はそれが当然であるかのように憮然と言い切った。
建築物から山に飛びますかそこでー、と背中にかける力を増やし、それまで以上にもたれかかった。
なんとうか、こう……言い切られてしまうと笑うしかない。彼は本気でそう思っているのだ。
自分の絵は世界を変える。自分の絵にはそれだけの影響力がある。
なんて自信家で野心家で、子供っぽくてまっすぐで。
自然と口の端が上がって、笑みを形作る。こみ上げてくる感情に、あぁこれが愛しさっていうんだろうな、などと一人のろけてみた。
「……おい」
「なんでしょうか」
重い、と高橋が呟いた。でしょうね、と長屋は身を引く。
緩やかな沈黙が落ち、離れた位置から部屋を暖めようと努力する石油ストーブの稼動音がよく聞こえるようになる。
ふーっと、意識して上に息を吐けば、白く染まってすぐに散った。
この身体はなんてあたたかいんだろう、と長屋は思った。
あたたかい。そう、とても幸せであたたかいのだ。
「ね、ね。高橋さん。私いいこと思いつきました」
「なんだ」
お前の考えることはろくなことじゃない、とでも言いたそうに返されたが、長屋はそんなことにまったく頓着せず続ける。
「春になったら、一緒にデッサン行きましょうよ」
「お前、描けるのか」
背中合わせが崩れて高橋がこちらを振り返った。本気で驚かれている。
「それは高橋さんの仕事です。私は大人しく見てまーす」
呆れて再びイーゼルに向き直る高橋が、楽しいか、それ、と溜息を吐いた。当然、と長屋は小さく笑った。
「ねぇ、どうです?」
イーゼルを向いても高橋は筆をとらないので、後ろから飛びついた。嬉々として訊ねる様子が子供っぽいことなど百も承知だ。
高橋も高橋で、鬱陶しそうに顔をしかめながら引き剥がすようなことはしない。ただ、いつものようにぶっきらぼうな口調で端的に喋るだけだ。
「春は虫が多いから嫌いだ」
「そんなこと言って、もしかして花粉症ですか?」
「……お前はあれの辛さを知らんから言えるんだ」
「マスクと眼鏡、ついでに薬も用意しなくちゃいけませんね」
「誰が行くと言った」
突き放すような物言いで返される。だが、ここで引き下がる長屋ではない。付き合いはそれなりに長いのだ。
切り返す方法もちゃんと心得ている。
「じゃあ、行かないんですか?」
「誰が行かないと言った」
高橋が素直でないのはいつものこと。さして気にもせず長屋は思いつくまま計画を喋り始める。
「場所は高橋さんが決めてくださいね。お弁当とかも用意したほうがいいかな……卵焼きは甘めがお望みで?」
「好きにしろ」
「甘めにしますね。私もそっちのほうが好きですから」
柔らかなひかり降る冬の日。
いつものように高橋は描き、いつものように長屋は笑い、いつものように二人は会話した。
「春になるの、楽しみだなぁ――」
誰にともなく、あえて言うなら天窓からさす光に向かって長屋は言った。
ささやかな約束を交わそう。
今年の冬は、来年の春を。春になったら、夏を。夏を迎えれば、秋を。秋めいてくれば、冬を。
ささやかな誓いを立てよう。
いつだって彼は描き、いつだって彼女は笑い、いつだって二人が背中合わせで会話することを。
そして大いなる祝福を、いつだって願っていよう。
我侭で素直になれない若き芸術家と、明るくて甘えたの幸福な幼い猫に。