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title/夏の始まり、


 暑いときは、ひたすらに涼しいことを考えるに限る。
 生まれてから経験してきた十三回の夏で得た、それが朝丘水乃の自論だ。
 額に流れる汗を感じつつも強制的に無視して、水乃は自分のボキャブラリーにある『涼しい』語彙を脳内に並べ立てた。
 涼しいプール、冷たいジュース、凍ったシャーベット、クーラーの効いた部屋。あとはやりかけのゲームがあれば文句なしだ。

「――ふっ」

 ……現実はなんて虚しいんだろう。
 ただでさえよくない目つきを更に悪くして、水乃は幸せすぎる楽園の光景(という名の現実逃避)から実際に置かれた状況へ意識を切り替える。
 じっとりと湿った重くけだるい空気が立ち込める室内。蝉の声が遠くに聴こえ、ついでにこっちの気まで遠くなりそうな暑さだ。氷菓子なんて一瞬で溶けてしまいそうなほどの。

「あっつー……」

 涼しくなりたいという切実な想いを含ませて呟いた台詞はしかし聞かれなかったようで、目の前に座る女性はかまうことなく英語のワークを差し出してきた。どうやら水乃の意見は完全無視で補習を進める方針らしい。
 水乃は軽く女性を睨んだが、彼女はまったく意に介さない様子で本を読み続けた。
 目の前で平然と読書をしているのは駅前にある『田所学習塾』の塾長。当然、水乃が勉強しているのはいつも授業を受ける教室の一角。そして、他に生徒は見当たらなかった。
 常ならば同年の子供たちで溢れかえる教室は、水乃と塾長の二人しか存在していないせいか妙に広く、また虚しく感じる。

「早くしないと終わりませんよ?」

 いつの間にかこちらに視線を注いでいた塾長に、水乃は胡乱げな瞳を向けた。
 とても綺麗な微笑を見せる人物だが、不真面目海道をひた走る水乃に容赦なく課題を押し付け出来ないと最初から見越し補習と称して呼びつけるくらいには腹黒くもある。世の中、見た目にだまされてはいけない。

「やればいいんでしょう、やれば」

 さよなら冷房、こんにちはプリントたち。
 半ばやけで、差し出されたアルファベットの踊る紙面へ目を落とす。
 夏の暑さとじめじめした空気の中、窓際におかれた扇風機は白々しく回るだけでまるで効果がない。水乃は役に立たない扇風機を恨めしげに見つめた。
 ずいぶんと古いタイプのそれは長く伸ばした髪の毛を巻き上げるばかりで、涼しいと感じるような風を送る気配は一向にない。
 舌打ちしたい気分を、塾長の手前我慢しておく。

「帰りたい……」

 代わりに出てきたのはぼそぼそとした小声。偽らざる本音である。
 窓の向こうにあるビルの隙間から覗く青空は美しいが感銘を受けるほどではなく、見ていて特別楽しいものではない。ただ、ああ、よく晴れてるなぁ、くらいにしか感じない。いや、その快晴っぷりが憎く思えてきた。
 しばらく眺めていると眩しさで眼が痛くなってきたので、今度は窓ではなく教室の扉に顔を向けて呟きを繰り返した。

「帰りたいなぁ。早くここから出て行きたいなー」

 斜めからプリントを眺めて適当に理解できる部分だけを埋めていくと、それなりの速さで進んでいった。ほとんどが空白なのは目を瞑りたい。

「帰りたい……出て行きたい……ここは暑いから嫌だあぁー」

 その声は相変わらず自分が聞き取れるほどの大きさで、塾長には聞かれていないはずだ。聴こえていても無視されていただろう――だからそのとき聴こえた声も、勘違いだと思ったのだ。そのときは。


 ―――――の?

 かすかな水音と共に、それは聴こえた。


 ―――――私も早く出たいの……

「……はい?」

 いきなり耳に入ってきた声に、水乃は思わず聞き返す。
 可憐でどこか弱々しい女性の声と、少しの穢れもない清水を思わせる水の音。二つの音は奇妙に共鳴し、聞いたことのない響きで空気を震わせていた。
 思わず背筋を伸ばして声の出所を探った。音の聞こえた廊下側の窓あたりに視線を移す。  暑さなど忘れる、涼やかな響き。それは確かに水乃の心と興味を惹きつけ、一瞬で捕らえてしまった。
 誰か、水乃と同じように補修を受けている人がいるのだろうか。
 だが、水乃の小さな愚痴に答えるようなあの言葉は、一体――?

「朝丘さん、どうかしましたか?」
「あ、いえ、何も」

 いきなり廊下を見つめて黙ったのを怪訝に思った塾長の声で我に返り、水乃は前を向く。それでも聴覚は声の聞こえたほうに集中させておいた。もしかすると水乃のいるB組ではなく、他のクラスの生徒かもしれない。
 聞き間違い、の一言で片付けられないほど、あの声は印象的だった。
 忘れ物をした女子が、それを取りに来たのだろうか。塾の教師の中に、あんなに若い人はいなかったはずだ。水乃の知る限りあのような声を持つ者はいない。とはいえ水乃も塾生の全員を知っているわけではないし――。

「朝丘さん、手がお留守になっていますよ。あと二十枚です。そんなペースでは夏休みの課題も終わりませんからね」

 少しばかりはっきりしてきた気分を逆行させる塾長の言葉に、水乃はプリントにペンを走らせながら軽く答える。

「大丈夫です。課題はありませんから」明らかな嘘。
「貴女と同じ中学の生徒がこの塾にいったい何人いると思っているんですか?」微笑つきの答え。

 さすがにこれはダメだったか。水乃は塾長にばれないよう、今度は心の中で舌打ちをした。
 この様子だと、夏休みの課題もばっちり監視するようだ。いかにして逃げ回るかを考えなくては、たった一度の中学二年の夏休みは勉強詰めになってしまう。
 そんな水乃の考えを読み取ったのか、塾長はため息をつきながら呟く。呟いたといっても水乃の耳にはばっちり聞こえていたし、本人も聞こえるように言ったのはたしかだ。
 要するに嫌味か。

「まったく、貴女だけですよ。この塾で夏休みに呼び出された二年生なんて」

 ぎろり、とそれまで穏やかだった塾長の目が冷ややかに水乃を捉える。

「一ヶ月間も私の補習を逃れ続けた生徒も、です」

 この人は目からビームが出せると専らの噂だ。なるほど、納得できる。

「優秀でしょう?」

 真面目な塾長に、あえて冗談っぽく水乃は答えた。

「悪知恵と愛想笑いだけでは世の中渡りきれませんよ?」

 目の前に座る女性は相変わらず微笑んでいる。人のことがいえた義理か。

「……先生のほうこそ愛想笑いが……」

 ささやかな反抗に出た生徒に、塾長は穏やかな微笑を浮かべて首を傾げた。その表情が『何か文句があるのか』と語っている。
 水乃は黙ってプリントの問題に眼を落とした。権力者に逆らってはいけない。塾長は自分の母親とそう変わらない歳のはずなのに、この差は一体なんだろう。
 だが、やはり暑さには勝てず、再度頭が同じことを考えだした。シャープペンシルを握った手が再び動きを止めるまで、そう時間はかからなかった。
 集中力が完全に切れている状態の水乃に、塾長はあきれた様子で言った。

「ここは一番陽が当たらなくて涼しいんです。補習を受けるには最適なんですが」

 補習を受けるのに最適も何もあるか、と水乃は心の中だけで反論しておく。
 他には狂ったような蝉の鳴き声しか聞こえない。ただ暑い、という事と、水音のような声だけがぼんやりとした意識の表層で繰り返されていた。

 七月下旬、これから厳しい暑さが訪れるだろう。


 ――――そう、逆らっては、だめ……


 ――――それなら、早く、出よう――――



 夏の終わり。歓喜の声を聞く者は、いない。





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お小言
Web用にもう少し地の分を削るべきか悩んだのですが、
面倒なので や め ま し た(笑)
塾に関しての記述がすごく現実離れしているのは木田が塾未経験だからです。