一ミリグラムの期待を胸に。
title/女神になろうか!
月が夜空の最も高い場所に上る時間。街から少し外れた位置にある、人が住むには随分とさびれた、けれどあばら家と呼ぶには手入れのされた小さな家の二階で、その「儀式」は始まっていた。
開け放たれた窓からは丸く満ちた月がのぞき、その明かりで照らされた部屋の中は明るい。部屋の中央には水の張られた桶がひとつ。その水面には散りばめられた色とりどりの花弁が浮かび、夜空で煌々と輝く満月が映っていた。
淡く揺れる花びらと緩く歪む月がきちんと見える位置から、儀式の主催者である青年がただ一人中腰でそれを覗きこむ。
場は既に成った。
後は事前に頭に叩き込んだ通りの文言を口にするのみ。緊張に息を飲みつつ、彼は「ムーサ召喚の言葉」を朗々と謳い上げた。
「幽遠なる彼方より、わずかに聞こえし太鼓の音よ。月みつる今こそ音の端を掴まん」
少しばかりの緊張をはらんだ声で、芝居がかった言葉を青年が紡ぐ。
「海底に沈んだ唯一のディモスよ! その頭上に輝くレスボスの輪を見上げよ!」
呪文じみたそれも佳境に入ったのか、言葉の端々に熱がこもる。
「深く眠る芸術の神ムーサ、我が切なる願いを聞き届けその眼(まなこ)を開けたまえ!」
青年が叫び終えたのち、待っていたのは静寂だった。窓から入り込んだ夜風に揺れる、桶の水をただ黙って見つめる。
「……駄目かぁー」
一分ほど待って何も起きないことを悟ると、青年――フィース・ハンプトンは落胆の声とともに腰を下ろした。
「やっぱり、ムーサなんてそうそう現れるもんじゃないよなぁ」
召喚の儀式だなんて怪しいものに手を出してしまった己に対して急に恥ずかしさがこみ上げて、フィースは一人「ないない、ほんとないわー」と一人ごちる。
本当に、我に返ってみると中々に恥ずかしいことをやった。そろそろ二十代も折り返し地点の男が、十代の少女がやりそうなおまじないに縋るとは、仲間たちには絶対見せられない光景である。
「そりゃそうだ、あのオッサンだって冗談みたいなノリで言ってみただけだろうし。試す俺が馬鹿だったわー」
あー恥ずかしい恥ずかしい、と自分を誤魔化すように口にするが、その声もだんだん小さくなっていった。
(……結構、期待してたのかなぁ)
ふぅ、とフィースはため息をこぼす。街外れにあるこの家は夜半ともなれば本当に静かで、遠くに聞こえる虫の声だけが鼓膜を震わせた。
――藁にもすがる思い、というのはこういう事なのかもしれない。
失敗したことに思っていた以上の落胆を覚えてしまい、追い詰められていたのだと実感する。乗せられて「儀式」を行ったことよりも、ここにきて不安を抱いている事実に羞恥といら立ちが募った。
壁に掛けられたカレンダーに目線をやる。そこに刻まれた日付は動かしようもなく、フィースが座長を務める劇団「麦刈座」の旗揚げまであと七日と迫っていた。
(今のままで、本当にやれるのか)
言いようのない不安がじわりと広がる。
麦刈座は総勢十人からなる小さな劇団だが、その団員のほとんどが演劇なんてものには縁のない人間だ。座長であるフィースのみが、唯一そういうものに触れる機会があった、という程度であり、本当に素人の集まりである。
そもそも今日日劇団なんてものを立ち上げようとすればそうならざるを得ない状況ではあるが、けれど彼にも願いがあった。
何をすればよいのかもよくわからないまま、付け焼刃の知識と勘と幼い頃の記憶だけで劇団の旗揚げにまで突っ走ってしまうほどには、強く願うものが。
(……まぁ、街どころかこの国の人間は、ほとんど「そういうもの」を知らないわけだけど)
この国では、長らくそういうもの――歌や踊り、演劇といった芸事を見せることが認められていなかった。
いわく、人を集め、芸を披露することを禁ずる。
いわく、集団で芸事に興ずることを禁ずる。
歌うことは教会の一部で許されていたが、楽器の演奏なんてもってのほか。その唯一許されていた教会での讃美歌も、数年前に禁止されてしまっていた。
最初のきっかけなんてもう誰も覚えていない。けれど人前で歌や劇を披露するのは、長年この国において確かな「悪」だったのだ。フィースの祖母が幼い頃には既に取り締まりが厳しくなっており、一家で旅芸人をやっていたという彼女たちも、祖父の生まれ育った小さな村に根を下ろすことになったと聞く。
そうして父が生まれ、フィースが生まれて、その間も禁止令は続いていた。
「随分、様変わりしたよなぁ」
そんな状況が変わったのはつい一年ほど前。税収が厳しい訳でもなく、身分による差別がひどい訳でもない、ただあらゆる娯楽に対しての取り締まりが異様なまでに厳しかったこの国の王が倒されたのだ。
その頃のフィースは職場を辞めたばかりでのんびりと田舎暮らしを満喫していたので、国が変わりゆく過程をよくは知らない。ただ、きっかけとか時代の流れとか、そういったものがうまくかみ合ったのだと思う。多少の血を流しながらも、この国は比較的穏やかな流れで共和制に移行していった。
国内の混乱がある程度収まった後、民衆の間で爆発的に流行りはじめたのは歌や踊りであり、それが商売に繋がるのにそう時間はかからなかった。
劇団や一座の旗揚げはいわば昨今のブームであり、それこそ首都に行けば何百という劇団・一座が日々多種多様な演目を披露するのだという。周囲から見れば、フィース達も流行りに乗っかった若者にしか見えないかもしれない。馬鹿な奴らだと笑う声だってたくさん聞いた。
ましてや、麦刈座で多少なりとも「披露できる芸」の類に触れたことがあるのはフィースのみ。行き当たりばったり極まりない運営だと自覚している。
(そりゃ、おとぎ話に出てくる神様にだって縋りたくもなるさ)
ムーサは芸術の神であり、多種多様な芸に通じるとともに芸人の守護者でもある。この国一番の劇団と名高い天狼座が今の地位を得たのも、ムーサの加護あってのものだと聞く。
フィースとしては、天狼座のように首都で有名になりたいわけではない。むしろ小さな街でこそ興行したいと考えていた。
物思いに耽っていると窓から夜風が少し強めに入り込んできた。少し冷たいそれに意識を引き戻されて、フィースは立ち上がる。
何はともあれ(最初から望み薄とはいえ)儀式は失敗したのだ。いい加減腹を決めて、明日から演目の最終確認に入らなければならない。
立てつけが悪いせいでガタガタとうるさい窓を閉めてしまうと、虫の声すら届かぬ静寂が部屋に満ちた。静かすぎて寂しいような気がして、思わず口が動く。
「ゆーうぞーらはーれて、あきーかぜーふき――」
小さく口ずさむのは、祖母が教えてくれた異国の歌だ。いや、異国ではなく異世界の歌だったかもしれない。
「つーきかーげおーちて、すずーむしーなく――」
次のフレーズを口にしようと、息を吸ったその瞬間、背後からぱしゃん、と水の跳ねる音がやけに反響して聞こえた。
反射的に振り返って見えた光景に、フィースは驚き息を飲む。
「へ……はっ……?」
水の張られた桶の上に、信じがたいもの――淡く光る、人間が浮かんでいた。
驚愕で動けないフィースをよそに、光は徐々に外側へと散っていく。
光の中から現れたのは、繊細なレースに縁どられた薄い服に身を包んだ、十代中ごろの少女の姿だった。
「なっ……」
驚きに思わず叫びそうになって、けれどその神々しさに言葉を飲み込んだ。
長いまつげに縁どられた瞳は閉じたまま、どこか人形めいて現実感がない。ふよふよと気持ちよさそうに浮いている身体からは、月明かりによく似た優しい光があふれている。
恐る恐る宙に浮かぶその身体に手を伸ばすと、少女は誘われるようにふんわりとした動きでフィースの腕の中に納まった。
少女を抱きかかえ、ゆっくりとその場に腰を降ろす。光が収まるのと比例して、腕の中の重みが増した。――ひとりぶんの、確かな重み。
「……ムーサ?」
フィースが呆然と呟けば、腕の中の少女のまつ毛がふるりと震え、次いで瞼がゆっくりと持ち上がった。
「ん……」
小さく呻く少女の茫洋とした瞳が、抱きかかえるフィースの顔を捉える。フィースはただ、彼女の瞳の焦点が合っていく様を見つめていた。
お互いしっかりと目を合わせること数秒。
微睡から覚醒したらしい女神の顔に驚きと恐怖の色が滲んでいき、その桜色の唇が戦慄いた。
「ひっ……きゃああ放しなさいよ変態ぃぃぃいい!」
なかなかの速度で繰り出された右ストレートをとっさに利き手で受け止め、ぎゅっと握りこむ。抱きしめたままの女神が、ひっ、と小さな悲鳴を漏らして顔を青ざめさせた。
「ま、待ってくれ! 危害を加えるつもりはないんだ!」
フィースはそう叫ぶと同時に両手を挙げて敵意がないことを示す。
拘束の解けた女神は素早い動きでフィースから距離を取り、壁に背中を張り付けるようにして後ずさった。視線をフィースに張り付けたまま、じわじわとした動きで唯一の出入り口であるドアへと向かう。後ずさりながらも横目で出入り口の存在を確認したらしかった。
その判断力の高さにこんなときでなければ感心してしまう所だが、今は何より話を聞いてもらわなければならない。
女神に触れるのは恐れ多いし怖がらせてしまう、けれど逃げられてはたまらない――こんな時にただの人間が取れる行動は一つしか存在しない。
「お願いです、どうか話を聞いていただけませんでしょうか!」
そう叫ぶと同時、フィースは勢いよくその場で頭を下げた。いわゆる土下座である。
「ひっ」
「たいへん情けない話ですが女神様のお力が必要なんです! ご存じかどうかは分かりませんがこの国は芸能の類が一切禁止されて久しく、ようやく許された今も禁止された期間が長すぎて、俺……私みたいな一般庶民は何をすればいいのかサッパリわからないんです! でもせっかく解禁されたんだし楽しもうと思って、でも都でやってる舞台とかは、その……見るのにもお金が必要だし、そもそも大きな街に行くことも難しい人も多くて、でもやっぱりやってみたいし見てみたいし、見てもらいたいんです!」
とにもかくにも必死で言葉を紡いだ。信心深い訳ではないフィースは女神に対して何が失礼に当たるのかわからないが、それでもどうかこの必死さが伝わりますように、と願った。
フィースの耳は女神の足音を捉えない。聞いてくれている証拠だ、と自分を奮い立たせて話を続けた。
「俺、祖母が旅芸人だったからいろいろ話を聞いてて、少しだけ見せてもらったこともあって、その時のこと今でも忘れられないんです。この街のやつ、じゃなかった人たちにも、そういう……胸が熱くなるようなあの感じを」
そこまで言って、フィース一度言葉を区切る。それこそが彼の強い願いだった。
――街の人たちは、演劇や歌劇を知らない。
流行っているとはいえ演芸の中心地はやはり首都だ。けれどこの国にいるのは、歌や踊りを楽しみたいと願うのは、首都にいる人間ばかりではない。
素晴らしい演奏にひととき身を任せる幸せ、生身の人間が演じる舞台に手に汗握り涙するあの瞬間。ここではない別の世界へとのめり込む、あの感覚を――街の人たちにも知ってほしい。
「何とかして一座は作れましたし、人もそこそこ集まってます。来週には初めての舞台も予定してます……でもやっぱり不安で、胡散臭いとは思ったんですけど芸術の神、ムーサであるあなたを呼び出す召喚術にまで手を出してしまって。女神様からしてみれば迷惑以外のなにものでも無いとは重々承知しています! でもどうか、どうかご慈悲を……!」
職場を辞めるときだってこんなに焦らなかったし必死じゃなかった、という勢いでフィースはまくし立てるように説明した。許されるならそのスラリとした足に縋り付いて懇願していただろう。
月明かりしか光源のない部屋に満ちた沈黙を、先に破ったのは女神だった。
「……あなたには悪いけど。私、女神じゃないよ」
ぽつりと零された言葉に、まさか、とフィースは内心で否定して顔を上げる。
先ほど見事な右ストレートを繰り出したとは思えない、可憐な少女がそこにたたずんでいた。
月明かりに照らされた髪はつややかに黒く、顔立ちはフィースの知るどんな人種のものとも違う。髪と揃いの黒々とした瞳には薄い膜が張っていて不安げに揺れている。桜色の唇から漏れた弱弱しい声は甘く、心にしみるようだった。
「美しい」とはまた違う、けれど心惹かれるその造形で、女神であることを否定されても説得力がない。なにより。
「……あなたは、俺の声に応えてくれました。ムーサを求める、俺の声に」
だからあなたは女神です、とはっきりした口調でフィースは告げた。
女神であることを信じて疑わないフィースの言葉と視線を前に、彼女の瞳に浮かんでいた揺らぎは徐々に治まる。
まっすぐに見つめ返す姿は可憐でありながらも凛然としていた。
「……私、ただの人間だけど」
再び口を開いた彼女の言葉は、女神であることを否定するものだった。けれどその瞳に何かの覚悟が伺えたので、フィースはただ黙って彼女の声に耳を傾ける。弱々しさは消えた、けれど相変わらず甘い声。
「歌も踊りも演劇も、バラエティにだって対応できる、スーパーマルチアイドルだから」
半分以上何を言われているのかわからない。けれど言葉の端々に込められた、彼女の力強さを信じた。
「あなたの女神に、なってあげる」
じぃ、と見つめ返す双眸は珍しい闇色だった。黒々と澄んだ瞳は夜の海のようで、どこまでも深く底が見えない。
――まるで深淵をのぞいているようだ、とフィースは思った。