title/とある権力者の観察
遮光性の高いカーテンで窓からの陽も遮った薄暗い室内。
備え付けの灯りは落とされ、円卓の上に置かれた年代物の蝋燭立ての先で、ちろちろと心もとない炎が揺らめいていた。
その蝋燭に、ぼぅ、と照らし出される人影一つ。
やはり年代物で精緻な細工の施された椅子に腰掛け、これまた年代物の美しく小さな円卓の上に置いた杯に向かい合っている。
杯は卓や椅子の統一されたデザインと異なり、明らかに素焼きと分かる素朴な体裁をしていた。
中身はカラだった。
「水は原初。故に全てを正しく映す」
人影が発したのは柔らかな声。
ゆったりとした動作で片手を持ち上げると、声の主は杯の上に手のひらをかざした。少し骨ばった、若々しくはないが手入れの行き届いた綺麗な手。
人影は室内だというのに大きめのローブを羽織り、目深にフードを被っていた。小柄な体躯やローブの裾から伸ばされた腕、そして柔らかな声音がその人影は女性だと伝えている。
「水はらむ風、風はらむ水。両者は混じらずここに分かつ」
刹那、すい、とどこからともなく風が吹いた。
風はローブを巻き上げ、すぐに収まる。その一瞬だけ、何故か蝋燭の炎が動きを止めた。
そして気付けば杯には並々と水が注がれており、水面は彼女の白い掌を映していた。
「全生命の母胎たる汝に願う。全生命の健やかなる日々を」
水面に映る白い掌が波紋で揺れる。
カーテンもローブも、風に揺られた気配はない。
それでも水鏡は緩く波打った。
「一生命の観察者たる汝に問う。一生命の波乱に満ち満ちた今日を」
変化が起こるのに時間はかからなかった。
透明だった水が、徐々に色づき始める。より正確に言うのなら、水面がまるでテレビのように映像を映したのだ。
それは、例えばなんということのないどこかの市場だったり、
それは、例えば貧困にあえぐどこかのスラム街だったり、
それは、例えば緑豊かな森とそこに棲む動物の姿だったり。
めまぐるしく変わる景色は、波立っているせいで若干歪んでいたが、彼女はそれを露ほども気にせず見入っていた。
水面は相変わらず緩やかに波紋を生むものの、水がこぼれることはなく、少し歪な映像を流し続ける。
しばらくすると外側から波は収まり、同時に水の色が薄くなっていく。
「――今日も、これといった変化はないようですね」
かざしていた手を膝に戻し「賜りし恩恵に感謝を」と、今までのどの言葉よりも真摯な響きを込めた謝辞を呟く。
どんなときでも、精霊に対して感謝の念を忘れてはならない。
精霊は自然に属する偉大で強大な力を持つが、反面その存在自体は脆いのだ。認識する者が居なければ希薄になる。
自然に存在するものをただのモノではなく命ある者として捉えることで、精霊の存在は人間に知覚されるのだ。
だから彼女は井戸からくみ上げた水ではなく、わざわざ精霊の力を借りて杯を満たした。
本来なら空気中からわざわざ水分を分離させる必要などない。
それでも、精霊の存在を認識していることを示すため、そしてこちらの方が魔法のようで面白いというミーハーな理由で彼女はちょっとした手間をかけたのだ。
彼女を慕い、敬う者が聞いたらちょっと泣きそうな理由だが、その前に彼らは問うだろう。
魔女とは何ですか、と――。
なにせ彼女と彼らは違う世界の人間。知識の差異は当然だ。
それは確かに「世界」の違いであり、そしてまた「世代」や「時代」の違いでもある。
寂しく感じたことなど数え切れないほどあるが、仕方のないことだととうに諦めている。
「さて、今日はこれから何をしましょう」
杯のふちを人差し指で辿る。
つい先ほどまで彼女が見つめていたそれは、一見ただの水鏡に見えるが、実際には違う。
彼女と契約を交わした古の土精霊がその身を休めている土から作り出した杯には、この世界の全てを思うまま「覗く」ことが出来る、おいしい特典が付いている。
何故なら地面はどこにでもある。それこそ海だって最終的にたどり着くのは土なのだから、土の精霊は世界を見渡すことが可能で――などといった小難しい解釈は年を経るとどうでもよくなってきて、今では「この杯に入れたら色々見える」事実さえあればいいと考えている。
「私も年をとったわ……」
世の女性に聞かれたら十中八九恨まれる台詞を平然と吐きながら、彼女はため息をついた。
彼女の年齢は既に仙人並みだが、見た目だけなら30代で通る。
肉体的に老いる速度が遅いだけで、永い永い時間を生きているうち、流れに身を任す事が多くなってしまった。
これもその一部。良くない傾向だ。
(身体は老いても、心意気だけはいつまでも若く保たないと)
でなければ身体だけじゃなく頭のほうも老いるばかりだわ、と今度は十中八九どころか確実に恨まれるであろうことをさも当然のように考える。
唯一の救いは言葉にせず心中で思うにとどまったことだろう。
「……あら?」
杯の水を「返還」しようと手を伸ばしたところで、水面にそれまでとは違う映像が映し出されているのに気付いた。
土は異変に敏感だ。ときに広大な包容力で全てを包みながら、生命と母性をあらわす土はあくまで「子」たる数々の生物に聡い。
彼女の意思でなく光景を映すのは、何かが起きている証拠だ。
(地震? 災害?……違う、精霊は動いてない。それなら、政変? 人災?)
思いつく限りの緊急事項を予想して身構えたが、水の表面に映ったのはどこかの森と、その背後に広がる青空だった。
どうやら、彼女の考え得る範疇を超えた出来事らしい。
(ざわついてる)
空気、気配。
何もない空間、木と空の境目に当たる一点に、周囲の動植物が気を張っている。
よく目を凝らして覗き込むと、その何もない空間に小さな亀裂が走った。物理法則を無視した形で亀裂は肥大化し、ざわつきは余計酷くなる。
「繋がった……?」
ようやくどんな緊急事態か彼女は理解し、その上でやはり驚いた。
世界が繋がったのだ。
概念としての世界は平行世界と常に「繋がって」いるが、このような形で物質的に「繋がる」ことは久しくなかった。
これはごく稀に見られる現象で、人の一生が半周するにつき1回程度の頻度で起こる。
「あらまぁ。何年ぶりかしら」
刹那の緊張が抜け安心し、頬に手を当てのんきに呟く。
彼女の中で、「繋がる」ことはさほど切迫した状況ではない。こればかりはなるようにしかならない。人が手を出せる領域ではないのだ。
しかし亀裂の生じた付近では妙な風の唸りや木々のざわめきが確認されるだろう。こちらに音は届かないが、なにせ世界規模なのでこれは結構近所迷惑な音を出す。
勘の鋭い者や精霊の動きに敏感な術者なら、何か異変を嗅ぎ取る可能性も捨てきれない。
騒ぎになったときどう対処すべきかと、いくつかの場合を想定して考えを巡らせていた彼女の視界の端に、奇妙なモノがちらついた。
「……?」
濃紺の布地が、四角く機能的で、しかし無個性な形をとったものが亀裂から姿を現した。
どこにでもありそうで、しかし実際目にするのは何年ぶりになるかもわからない、それは。
学生鞄、だ。
亀裂は既に二メートルほどの大きさの穴となり、あまりの懐かしさに呆然としていた彼女は、続いて姿を現したモノを見てそれまで以上に目を見開いた。
――人の手。
しかも、穴と水鏡の映像には若干の距離があり完全に視認は出来ないが……どうやら、二人分。
「あらあら……?」
世界が繋がっても、あちらとこちらの間で物のやり取りがあるのはとても珍しい。特に人となると、確率はぐっと低くなる。
客人が来るのは何年ぶりだろう。彼女も永い年月を生きてきたが、それでもあちらから客人が来る回数を数えるのには両手……否、片手の指で事足りる。
鞄が穴から完全に抜け、さらに客人がその穴から二人とも吐き出され――派手な水しぶきを上げながら巨大な水溜りに落下した。
しかも不思議なことに、結構な高さから落下した彼らは傷を負うことなく着水すると、クッション代わりになった水溜りは彼らを置いて移動する。
まるで生き物のように蠢き、落下地点のすぐ隣にある湖へと戻った。
二人の客人は、遠目に見ても男女一組。おそらく亀裂に飲み込まれた衝撃だろう、気を失っているよう見える。
口元に手を当て、彼女は息を呑んだ。水が動いたことにではない。いや、確かに水が動いたことが驚きなのだが、自ら動いて客人を助けたということが驚きなのだ。
(珍しい)
日常生活でも精霊を使役――この言い方が彼女はあまり好きではなかったが――するようになり、人は彼らを「便利な道具」として扱うような傾向が強まりつつある。
感謝の念を忘れる、ただのモノとして捉える。
それは精霊の存在に対して最も危険な思考。
故に、最近では精霊側から人間へと働きかける機会が減っている。それも極端に。
そのうえ、あの懐かしい形の学生鞄から想像するに、客人は「精霊」の存在を真っ向から否定する世界から来たに違いない。さらには意識のない状態から想像するに呼びかけなどしようがないはずだ。
だが、それでも。
(今、確実にどちらかへ水の守護が働いた)
どうやら今回の客人は、少しばかり特殊らしい。
「……どうしましょう」
あまり真剣みのない声音で、権力者は呟いた。