title/目覚めたら



 トンネルを抜けると、雪国だったとか、不思議の国だったとか、そんな話は数あれど。

「目が覚めたらいきなり森ってのは聞いたことないわ」

 川端康成もそんな話は書いていない……と、思う。
 ついでに雪国ほど寒くない。むしろ暑い。何故だ。今は春先のはずなのに。
 高校三年生になったばかりの高柳和巳はあまり文学小説を読まないので、他にそれらしい作品を書いている文豪は知らない。

「それにしても、ここはどこよ」

 寝ころんだ状態から上半身を起こし、ぐるりと周囲に視線を巡らせる。
 見えるものは木、木、木、一部湖っぽいもの(池と湖の違いはよくわからないが、綺麗で結構おおきいので雰囲気的に湖)、木、上には空。

「かっ……軽井沢……?」

 自然にあふれているので、とりあえず。

(いやいや、軽井沢って別荘とか建つくらいなんだからもっとこう、整備された自然なんじゃ)

 改めて見回してみるが、やはり視界を埋め尽くすのは一面の木と湖(仮)。

(森? そうね、多分森。だって木がいっぱいあるしなんか熊が出て来そうだし)

 偏見かもしれないが、和巳はそれなりに栄えている地方都市で生まれ育った現代っ子である。林と森の区別は、池と湖以上につきにくい。
 よって、和巳脳内会議にて目の前の水溜りは湖、ここは森。満場一致で決定。
 現在位置も現状把握もままならないが、とりあえずはそういうことにして他のことに目を向ける。

(目が覚めたらここにいた。目が覚めるってことは寝てたってことで、じゃあ私は寝る前何をしていた?)

 訳が分からなさすぎて逆に冷静だ。パニックに陥る余裕すらない。和巳は両目を閉じて、落ち着いて記憶がどこで途切れたかを思い返す。
 周囲は静かで、ただ時折吹く爽やかな風に木や葉がすれる音が自然な静けさを和巳に提供していた。

(朝はちゃんと起きた。学校にも行った。帰ってきた記憶もある)

※※※


 高柳和巳はごく普通の現役女子高生だ。そこそこの偏差値の地元高校に通い、つい先日三年に進級した受験生でもある。
 少し人と違う所を挙げるとすれば、日本人にしては髪と目の色素が薄いことくらいだろう。
 進学のたびに繰り返される「髪を染める・染めない論争」も今は昔。地毛証明書の提出によって守られた和巳の頭髪は、赤縁メガネの奥にある瞳と同様、今日も明るい茶色である。
 濃紺のブレザーとチェックのスカートを翻して上るのは自宅マンションの階段。エレベーターを使わないのは、毎日のささやかな運動として己に課しているノルマの一つだった。その程度でも春の陽気を前にすると少しばかり汗がにじんだが、玄関前に到着した今となってはブレザーを脱ぐのも今更だ。

「あれ、鍵あいてる」

 不用心極まりない事態である。
 そもそも今日は職員会議で早めの帰宅になったのだ。部活に通う弟より先に帰ってきたはずだと思ったところで、今日は水曜日だったことを思い出す。

(そういえば今日は剣道部休みだっけ)

 納得と共に家に入ると、玄関は電気がつけっぱなし。ついでに靴箱に入っていないスニーカーが一揃い。

 ヤツめ、この間買ったばかりのゲームが楽しみで早くしたいからといって、いくらなんでもこれはなかろう。

 リビングのドアを開けた瞬間叱ることを決意した和巳は、鍵を閉めて二人分の靴を靴箱へしまう。
 まったく、心優しい姉を少しは敬ってほしい。今日のポテチ比率は七:三決定だ。
 がちゃり、とリビングのドアを開ける。テレビはこの部屋にしかないので、必然的に弟がいる場所は限られる。3LDKの一室を仕切ったそれぞれの部屋(スペース)にまでテレビを置かせるほど、高柳家は甘くない。
 玄関扉が開く音で既に気付いていただろう弟は、こちらを振り返りもせずに「おかえりー」とだけ声をかけた。学ランからは着替えていたが、視線は画面から離れない。

「大和!」

 んー、とおざなりな返事。画面で船が海上を滑る。酔わないのだろうか。

「あんた靴出しっぱなし、玄関の電気もつけっぱなしよ!」
 え、ごめん気付かなかった、なんてすっとぼけた答えを返しながら今度こそ弟はこちらを振り返った。
 大和が本気で靴も電気も忘れていたのは長年の付き合いで分かるので、仕方ない、素直に謝ったのだから今日のポテチ比率はやっぱり六:四にしてやろうと和巳は考え直した。

※※※


「……そこから見事に覚えてないわ」

 いくら思い返したところで結果は変わらず、謎は深まるばかりだ。
 唸りながら、ふと投げ出したままの足に違和感を覚える。視線をやれば、屋外だというのに靴を履いていない。柔らかな芝生の感触が、靴下越しに伝わってきた。

(そうだ、だって家に帰ってきたから靴は脱いで)

 服装を確認すると、間違いなく高校の制服のまま。念のためにブラウスの下に着ているものも確認すれば、確かに今朝自分で選んだものだった。

(そういえばここ結構暑いし、汗かいててもおかしくない。だけど服にべたついた感じはあんまりないから、そこまで時間は経ってないはず。じゃあ何があった?)

 和巳だけではない、あのとき同じ部屋にいた大和は――。

「――大和!?」

 どうして思い至らなかったのだろう。あまりにも理解し難い状況に、和巳は弟の存在を失念していた。
 やばい、やばい、と目覚めたとき以上の驚きと焦りが和巳を突き動かす。
 アテも考えも何もなかったが、とにかく和巳は立ち上がった――否、立ち上がろうとした。

「わっ」

 ――後ろにあった障害物に引っかかって、しりもちをつかなければ。

「……え?」

 障害物の意外に柔らかい感触に驚いてよく見れば、それは今まさに和巳が探さんとしていた弟、大和の姿だった。
 幸せそうな寝顔が腹立たしい。

(……潰されても起きんのかい!)

 なんというか、もう、心配して損をした。あの焦りを返せ。
 身体から一気に力が抜けて、地面に背中から倒れ込む。芝生の感触が心地よい。
 ブレザーが汚れるとか、後ろでゆるく結んだ髪に草が付くとか、そんなことを気にする余裕はなかった。
 ぼーっと空を眺めていると、ゆっくりと入道雲が流れていくのがわかる。

(ここ、暑いけど嫌じゃないな)

 空気が乾いているのか不快感がない。何年か前に家族旅行でいったハワイみたいだ。
 おかしい、と思った。
 毎日なんとなしに見ている天気予報によれば、今日の気温は四月上旬の平均程度。暖かくはあっても暑くはないはずである。
 奇妙な食い違いは和巳を不安にさせたが、だからといって解決策を見つけられるほど和巳の人生経験は豊富ではない。

「しかたない……とりあえず起こすか」

 心地の良い寝床から起き上がり、景気づけに伸びをする。降ろす手の勢いそのままに、近くにいた大和の背中に軽く叩きつけた。ぱふん、と可愛らしい音。
 それに触発されたわけではないのだろうが、穏やかな寝息を繰り返していた唇がむにゃむにゃと動いた。ぼそり、とその口から聞き取りにくい寝言が漏れる。
 耳を澄ませてみると、それは大和がプレイしていたゲームに関する事柄だった。武器はどう、エフェクトが、エンカウント数が、経験値が、世界が、異世界の住人が。
 異世界、という言葉が和巳の心にひっかかった。
 今、まさに。
 自分たち姉弟がいる場所は――。

「まっさかぁ!」

 自分の想像に自分で馬鹿らしくなり、和巳は声を出して否定した。そんなものより、誘拐の方がよほど現実味がある。
 生憎、和巳は「目が覚めたら異世界」という類の本は読んだことがなかった。
 気を取り直して、自分の手が痛くならない程度の強さで弟の背中を叩く。

「起きなさい大和。起きなさい」

 バシバシバシバシ。結構いい音がするが、一向に起きる気配がない。もうちょっと力を込めてみる。

「やーまーとー?」

 べしっばしっばちん。高い音。赤く腫れて、痛みを引きずる叩き方だ。少し手が痛い。
 学校で剣道部に所属しているわりには長めの黒髪が揺れる。
 それから何十回と叩いても弟のまぶたは仲良くくっついたままなので、和巳もいい加減ムカついてきた。楽勝だぜ雑魚敵がーなどとのんきに夢の世界でゲームを満喫する弟が憎い。
 というかキレた。

「いーかげんに……起きんかこの万年寝不足少年!」

 バチィ! と派手な音を立てて頭に一撃食らわしたあと、ぐっ、とうめく声を無視して力の抜けた身体をひっくり返す。間髪いれずに無防備な腹に肘を入れた。
 ちなみにここまでの所要時間約三秒。

「いっだぁ!?」

 痛みに飛び起きた大和の視線が、すぐさま犯人の和巳へと向けられる。

「姉ちゃんひどい! なにすんの!」

 十センチ以上の身長差があると、座った状態でも自然と高いほう――弟が見下ろす形になるのだが、いかんせん、その見下ろしてくる顔に迫力がない。瞳には涙らしきものが浮いて見える。

「痛いじゃないかっ、内臓が、内臓が!」
「あんたの睡眠欲の深さにお姉ちゃんは脱帽よ! 驚嘆よ!」
「成長期なんだよ眠くたっていいじゃないか!」
「それ以上身長を伸ばしてどうする! 175よ175! 中三男子平均なんて遠い昔に追い越した分際で!」
「他にも成長するところはあるじゃん!」
「頭か、頭か!? 脳みそは寝すぎたら溶けるのよ!? お姉ちゃんはあんたの脳の退化を止めてるの! 成長と退化は対義語だから、成長を促していることになるのよ!」
「何そのめちゃくちゃな理論! 俺ぜったい騙されないからね! 姉ちゃんだって高二女子の平均身長よりは高いでしょ!」
「もう高三よ問題を摩り替えようとしてもお姉ちゃんは流されないわよ! いくら起こしてもあんたが起きなかった事実に変わりはない、つまり私が寝てるあんたを蹴ろうが殴ろうが文句はないはず!」
「成長うんぬん持ち出したの姉ちゃんでしょ! 俺じゃない! てかどうしていきなり起こすのさ!? 今日俺部活の予定な……あれ?」
「成長期って最初に言ったの大和でしょっ、さぁ、自分の非を認めて謝りなさい!」

 我に返ったような弟は無視して、和巳は自分の言い分をまくし立てる。姉弟げんかは黙ったほうが負けだ。
 だが、そんな姉を大和は無視して、自身が不思議に思ったことを問いかける。姉弟げんかは流したほうが勝ちだ。

「ねぇ、俺ゲームしてたと思うんだけど。家で」
「うん、私は頭をはたく気だったんだけど。弟の」
「……」
「……」
「軽井沢は長野県だっけ?」
「そうね」

 やっぱり考えることは同じ。それを別段不思議にも思わない、THE☆姉弟マジック。

「……」
「……」

 だがそれに続く沈黙に耐えられなかったのか、大和は頭を抱えて叫びだした。

「てかここどこー!?」
「それを訊くために起こしたんでしょっ、あんたこそここどこか知らないの?」
「知るわけねぇっ……じゃなくてごめんなさい知りません」
「お前がゲームばっかりするからだー!」
「責任転嫁にも程があるよ!」
「ははは」
「わーん姉ちゃん戻ってきてーっ!」

 姉弟二人で中身のない応酬が繰り返される。状況が状況なだけに、テンションはフルスロットルである。

「そもそも大和は電気もつけっぱなしだし靴も片付けないし!」
「今の話と全然関係なくない!?」
「あと鍵は閉めろー!」
「そっ、それはごめんなさ……え、人?」
「当たり前でしょそりゃ昔のあだ名は……って、え?」

 動きを止めた大和の視線が和巳の背後に向けられていた。姉とは違い、どこまでも黒々とした瞳が驚いたように見開かれる。
 和巳は振り返ろうと首を巡らせ――

「何をしている、お前たち」

 その人間を目にした驚きで固まった。
 声の主が手にしている細長いモノが、こちらに向かって伸ばされる。
 ヒヤリ、とした金属の感触が首筋に走った。


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ポテチ比率 = ポテチ一袋を二人で分けるときの割合。
高柳家はポテチの袋食べ禁止です。
普段は5:5だけど食べるペースの速い大和が若干多くなる。そんなプチ設定