未知の生物――UMAと呼ぶこともあるそうだが――を発見する喜びというものは、一握りの人間しか味わえない極上の至福。
 ただ残念なことに、命の危機にさらされた状態で幸せを感じられるほど、高柳姉弟は知的好奇心旺盛でもマゾでもなかった。


title/『怪物』と書いて『しんしゅ』と読む。



 少年の視線の先にいたのは、藪の中から姿を現した一体の動物。全身茶色の体毛覆われた大きさ目測一・五メートルほどのそれ。二本の後足で立ち、前足には鋭い爪が覗いている。
 細部に違和感はあるものの、森の中にいるあのサイズの動物と言えば一つしか思いつかない。

「えぇっと……」

 和巳は幼い頃、今の家がある地方都市それなりの都会ではなく、父方祖母の住むド田舎に住んでいたことがある。山に囲まれた小さな村はよく言えば自然豊かな場所で、狸あたりは割と身近な動物だった。
 狐は結構可愛かった。
 猪もまぁ、話には聞いていた。
 鹿も一度だけ見たことがある。
 でも――

「熊はさすがにアウトでしょ!?」
「スリーアウト!? チェンジ!?」
「馬鹿ね一発退場レッドカードよ!」
「そんなぁ!」

 姉のパニックが広がったのか、大和もよくわからない答えを返した。
 絶叫後、すっきりするかと思えば余計頭がこんがらがるだけだった和巳は無意識に弟の隣へと移動する。既に姉弟揃って自由の身、しかしとてもじゃないが逃げ出せる状況ではない。

「熊くまクマ熊っ、大和なんとかしなさい現役剣道部員!」

 肩をがしっと掴み揺さぶる。前後に揺らされ先ほどとは違う種類の悲鳴を上げる大和。
 精一杯の抵抗で姉の揺さぶりを止め、しかし涙目になりながら訴える。

「無理無理無理無理、絶対無理! 姉ちゃん俺に死んで欲しいわけ!?」
「……うるさいぞ、お前たち」
「っていうかアレ熊? 熊じゃなくない? なんか耳とがってるよ!?」
「熊の耳は丸い耳よっ、だから女の子にぬいぐるみが人気あるのよ!」
「嘘だそれ方向性違う!」

 そこはおとなしく流されろー! などと理不尽な要求をする和巳を前にして、大和は逆に冷静になったのか「わかった流される」と頷いた。和巳もようやく、少しばかりの落ち着きを取り戻す。
 野生の熊に会ったら死んだフリ、というのはあまりにも有名な話だが、目の前の獣はそれを許してくれそうに無い。
 なんだかよくわからない唸り声のようなものが聞こえるし、口元からは涎が出ているように見える。

(会話出来なくてもわかる、そのボディーランゲージだけで『ボクお腹減ってます! いただきます!』って全力で言ってる……!)

 今にも食べられちゃいそう(語弊なし)な空気が肌に痛い。

「とにかく何とかしなさいよそこの紅白もち!」
「紅白……なんだ? 僕のことか?」

 紅白もちが何なのか理解できなかったようだが、分からないなりに決していい意味ではないと感じたのだろう。少年が不服そうに振り返る。
 だが、そんなもの完全無視して和巳は熊(仮)を指差した。

「あんた以外に誰があの野生動物相手にできるってのよ! その物騒な代物でなんとかしなさいよ! 何のための武器よ害獣駆除以外の何に使うっていうのよ!」

 つい先ほどまで自分を脅すために使われていたことを放り投げて叫んだ。
 すると和巳の発言が気に障ったのか、少年の瞳がキッと吊り上がる。一目見れば怒っていると分かるくらいの、例えるなら毛を逆立てた猫に似た表情だった。あまり迫力はない。

「これはアダマス教官が直々に選んでくださった剣だ、害獣駆除ごときに使うための物じゃない!」

 熊(仮)からほとんど目を逸らして和巳に反論するその態度は、和巳と大和が言い争う時となんら変わらず意外と子供っぽい。

「知らないわよそんな天気予報に出てきそうな名前の人! こちとら『動物とのふれあい☆彡』なんて所詮動物園の檻越しにしか経験のない都会っ子なのよ! 野生動物なんて相手にしたら死ぬ!」

 またも和巳の妙なあだ名ともつかない呼び方は少年の琴線に触れたようで、少年の身体がピクリと跳ねた。だが、予想していた反撃はなかった。
 熊(仮)が、茂みを踏みつける音がしたからだ。唸り声をあげ、ゆったりとした動きで近づいてくる。
 さすがの和巳も口をつぐんで弟にしがみついた。大和の方も、同じように和巳にしがみつく。
 一瞬だけ振り返った少年は、二人の怯えた様子に少し呆れたようだった。

「まったく……丸腰というのは本当だったのか」
「主張してるでしょさっきから!」

 いつになったら理解するんだこの餅がぁ! と言外に含ませたのは、多分隣にいた大和にしか伝わらなかった。
 どうどう、と大和が後ろから和巳の身体を羽交い絞めにしている。和巳は力の限り手足をバタつかせているが、姉弟といえども男女の力の差は埋まらない。
 ぎゃあぎゃあ騒がしい外野は無視して、少年は熊(仮)へ向き直る。
 彼の瞳がすっ、と細くなった。完全に見下した視線を直視すれば姉弟は声にならない悲鳴を上げただろうが、運の良いことに彼らは少年の背中しか見えない。
 彼がいわゆる臨戦態勢というやつに入ったことを悟り、喚いていた和巳も大人しくなる。

「緊急収集だったから、生憎と魔石は持って来てない……丸焼きにされないことを感謝しろ」

 決め台詞っぽいものを呟いて少年は剣を正眼に構えなおした。
 少年の態度に焦りはなく、自信すら垣間見える言動に「あっこれ大丈夫なやつだ」と緊張感がほどけていく。

(あんなアニメみたいな台詞に不自然さがないなんて、美形は得ねぇ)

 相変わらず弟の身体にしがみ付きながら和巳が場違いに呑気なことを考えていると、少年のほうが先に仕掛けた。身を低くして突進する。切っ先を後方に向け、柄を腰に引き寄せた構え方は時代劇でよく見る居合いに似ていた。

(うわ、速い……!)

 だが熊(仮)のほうも侮れない。巨体に見合わず俊敏な動きで、前足を地面に着いたかと思うと少年へダッシュしてきた。

 肉薄する。

 そう思いまぶたを閉じかけた和巳だが、少年は接触する一歩手前で横に逸れた。
 軽いステップで少年は芝生を踏み、熊が向き直るより速く地面を蹴った。刹那生まれる、肩口の傷。浅いのか深いのか分からない。しかし熊は確実に怯んだ。
 隣で大和が「おぉ……」と感嘆の声を上げる。
 少年の動きは流れるようで、剣術などとは無縁な和巳でも「すごい」と感じ入るほどだ。
 怯んだ熊が怒りだす前、その空白の数瞬に少年は動く。白い短衣と髪が踊る。獣が腕を振り下ろす。少年が避ける――。
 後ろに回りこんだと思った直後、ばん! と何かが爆発したような音がして熊の動きが一瞬止まった。その隙を見逃すことなく少年は背後から急所を突き刺したようだが、残念ながら和巳たちからはそれが見えない。
 冷や汗の流れそうな静寂。
 それを破ったのは、力尽きた熊が前かがみに倒れる音だった。

「た、たすかった……」

 詰めた息を吐き出すような弟の声で、ようやく和巳の時間も動き始める。
 熊が倒れたことで現れた少年の姿は先程と何ら変わらず、怪我ひとつない様子にひとまずほっとした。やや憮然とした表情には達成感などなく、ただ当たり前のことを当たり前にこなした、と言わんばかりでもある。
 ただこの時ばかりは少年の姿が輝いて見えた。
 理不尽に剣を突きつけてきた相手とはいえ、目の前に迫る命の危機から救ってくれたのは間違いない。
 せめてお礼の言葉くらい――近づいてくる少年を、和巳は殊勝な気持ちで待ち受けた。

「どうやら、山から下りてきたらしいな……理由は不明だが」

 そう言って、少年は二人を怪しむように目を眇める。
 そこに込められた疑いは明らかだ。
 キラキラした眼差しを速攻で捨て、和巳は思いっきり顔を顰めた。

「冗談じゃないわよ。サーカスの猛獣使いでもないのに、あんなの連れてこれるはずないでしょ」
「まぁいい。僕の役目は果たしたからな」
「は?」
「荒らされた跡を発見した生徒がいた。それで僕たちに収集がかかった」

 要するに、この理不尽で生意気な紅白もちがここに来たのはこの野生動物を見つけ次第撃退するためだったらしい。
 ……ついでに、この少年がいなかったら和巳たちは今頃この熊(仮)に成す術もなくゴハンにされていた……のか?

「ちょっと待って」
「なんだ」
「山からこんなのが降りて来てここにいるってことは、山と繋がってるの?」
「当たり前だろう」
「ぐっ……じゃ、じゃあ誰だって侵入できるんじゃないの? あんなのが入れるくらいだし」
「馬鹿か。常識で考えろ」

 その常識が分からない場合はどうするんですか。もしくは、その常識が今さっき根底から崩れた場合はどうするんですか。教えてください先生。
 押し黙った和巳に向かって、少年は呆れた――むしろ馬鹿に仕切った様子で「なんなんだ」と呟いた。
 それはこっちの台詞だ。

「対人間用に結界を張ってある。ある程度の動物にも有効だ。おおかた、薄くなった場所から潜り込んで来たんだろう」
「……へぇー」

 驚き方にも覇気がない。
 少年は訝しんだが、和巳も大和もそれどころではなかった。

 結界? 新種の動物? 剣? 紅白もち?

 全てファンタジーに満ちていて、リアリティに欠けるそれらの現実。
 自分の正気を疑いたくなる程度には、まだ和巳はまともだ。

「姉ちゃん」

 自分を呼ぶ声に、和巳は振り向いた。
 黒く澄んだ瞳が不安に揺れている。

「大丈夫よ、大和」

 和巳は顔の筋肉が引きつるりそうになるのを抑え、笑んでみせる。
 身長はとうの昔に追い越され、高く幼い声の面影はもうない。それでも。

「姉ちゃんに任せなさい」

 和巳あね大和おとうとを守るのは、絶対不変のルールなのだ。
 なおも色濃い不安を滲ませる大和の背中をゆっくりと叩く。小さい子供をあやすように。自分自身に「大丈夫だ」と言い聞かせるように。

「おい」

 少年はしばらくそんな二人を観察していたが、おもむろに剣を鞘に戻した。視線を向けた二人に対して立つように促す。

「とりあえず、責任者のところへ行くぞ」
「責任者って、誰」
「知る必要はない」
「……あ、そう」

 小生意気なガキだ、と和巳は胸中で毒づいた。
 だが、もうこれで疑う余地はないだろう――ここは、和巳たちのいた世界とは違うのだ。
 今まで全てだと思っていた、あの世界とは。


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お小言
紅白→おめでた→紅白もち
アダマス→ア○ダス という思考回路。