2.
「ここ、よね……?」
「地図と特徴と見る限り間違いないと思うけど……」
サフィルス手製の分かりやすく丁寧な地図と、扉の隣に立てかけられたシンプルを通り越して素っ気無い看板を交互に見比べたあと、和巳と大和の姉弟は視線を交わしてうなった。
ここではよく見かける灰色の壁は一目見て古いと分かるもので、ところどころを木板で補強してある。
この世界では珍しい木製のドアからは、当然ながら店内の様子は伺えない。
壁の一部がガラスだったり、壁に直接穴を開けたような入り口など、『外から店内が見える』外装の店が多いなか、外側からまったく中が見えないというだけで怪しく見えるから不思議だ。
それでも、勇気を出して木製のドアを押した。キィ、とこの世界では滅多に聞けない蝶番の音が高く響く。
昼だというのに全体的に薄暗い室内。元々そんなに広くはないだろうに、圧迫感を与える瀬の高い棚が林立しているおかげで余計狭く感じてしまう。床面積のほとんどを占拠した棚には無造作としか言いようのない陳列で瓶や壜が並び、統一性など欠片とて感じさせないデザインの商品には値札と思しき数字が張られているだけで、商品名などは一切書かれていない。
きれい好きの人間が見れば卒倒しそうな店内の様子に圧倒される。
店構えからして排他的だったが、店内の方も初めて入った人間には不親切な商品の並びをしていて、やっぱり排他的な雰囲気をにじませていた。
ショックから回復して店内を見回すと、店主らしき壮年の男がカウンターに座って新聞を読んでいた。男は大和たち姉弟に視線だけを向け、ギリギリ聞き取れる程度の声で「いらっしゃい」と呟いた。出迎えはそれだけで、男はすぐに手元の新聞に視線を落としてしまう。
店内を見渡しても男の姿しかないことから、彼が店主であることに間違いはなさそうだ。
二人とも、怯んで動きを止めてしまう。復活が早かったのは案の定和巳のほうだった。
「すいません」
つい一瞬前まで怯んでいたのが嘘のように力強い声とともに一歩進み出る。お尋ねしたいのですが、とワンクッション入れてから、サフィルスに言ったのと同じような醤油の特徴をスラスラと口にした。さすがに今度は冷静な態度である。
店主はその仔細な「醤油」の説明に多少反応したものの、結局は和巳が言い終えるのを待って再び新聞に意識を向けた。
「あぁ、悪いねぇ。実はついさっき売れちまったところなんだ」
「そんな」
いやそれ明らかに聞き流してるでしょ、といくら鈍い大和でも分かる。そんなあしらいにもめげず、姉は食い下がった。
「次はいつごろ入荷しますか?」
「んー……ちょっと分かんないかなー」
非常にめんどくさそうな、やる気のない返答。
……一見さんお断り、というやつだろうか。排他的な雰囲気に、そんなことを思った。
ここを紹介してくれたサフィルスも客として来たことはないと言っていたし、そのサフィルスにこの店を紹介した男子生徒の名前も聞いていない。
常連客に連れられて来た訳でもなく、だれそれの紹介で来ました、とも言えない大和たちに品物を売る気はないのかもしれない。
「あの、いくらくらいするものなんですか?」
これは単なる好奇心から出た質問だった。元の世界では近所のスーパーで五百円玉一枚あれば買えたものだが、果たしてここではどれほどの価値があるのだろう。
告げられた値段は、日本円にして新作ゲーム三本、といったところか。
「たかっ」
「他に売っているお店に心当たりはありませんか?」
素直に感想を口にしてしまった大和の足を悲鳴が出ない程度の力で踏みながら、かぶせるように姉が問う。
「さてねぇ」
いよいよ答える気のない店主は鬱陶しそうに眉をしかめた。迷惑がっているその様子に、申し訳ないような居心地悪さを感じてしまう。
というかそもそも、そんな高値で売られているとして買う気なのか、この姉は。
「似たような物でもいいんです、なにか――」
売るつもりなどない店主の対応に気づいていないはずがないのに、まだ食い下がろうとする。
そこまでする理由は見当もつかないが、姉のこんなに必死な表情は滅多に見られるものでない。
不安、恐怖、そういった感情はひた隠して平気な顔をしてみせる。基本的にカッコつけなのだ、姉は。
それを可笑しく感じて笑いそうになる。だが、ここで笑えば何が飛んでくるかわからないので(足とか拳とか)堪えていると、ひとつの案が頭を掠めた。
すぐさま行動に移すべく、浅く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出し眼を閉じる。
(おいで)
呼びかけに応えて大和の元に寄り添うようにして近づく、濃い水の気配。
醤油だって液体だ。液体なら、水精霊の力を借りて判断することができるかもしれない――大和は今通っている学校で、魔術の使い方を学んでいるのだ。
(見つけてくれる、かな)
懐かしい、と感じてしまうほどには慣れ親しみ、そして離れてしまった味を記憶から引っ張り出して手繰り寄せれば、囁く声が導いてくれる。
声の示すまま、中古ゲームが三本購入できそうな数字が価格として貼り付けられた、焼酎瓶大の商品を指差した。
「――そこの棚の、上から二番目、左から三番目の壜に入ってるの、買います」
それまでたいして喋らなかった大和の軽く放った一言が、店主の無愛想な顔をほんの少し引きつらせた。
※※※
店主に許可を取って(お金を渡した後に)その場で蓋を開け、ひと舐めさせてもらった。香りも味も、間違いなく求めていた伝説の調味料だった。
先ほどの店前とは打って変わって人の行きかう通りを、二人並んで歩く。紙で適当にくるんだ瓶を抱え、和巳は楽しげに笑う。
「見ただけで、中身がよくわかったわね」
「まぁ、なんとなく」
この世界における魔法――魔術を大和が扱えるというのは姉も知っているが、その話はあまりしたくなかったのでお茶を濁した。
「どんな仕掛けか知らないけど、終わりよければすべてよしよね!」
「……そうだね」
反論するのは体力消費につながるので賛同しがたい姉の言葉も流してしまう。焦点の合わない遠い目つきはオプションです。
(まだ午後を少し回ったばかりだ。これから帰れば、勉強のほうも取り返しがつくっ)
いつものネガティブ思考では対抗しきれない、出来るだけいい方向に考えるんだ! 次々溢れてくるマイナス感情から目を背け必死に戦っていると、姉がレリアの家がある住宅街ではなく、より人気の多い路へ足を向けていた。
「あれ、どこ行くの?」
これでようやく帰ってやりたいことをやれる、そう安堵した矢先だというのに。せっかく明るい方向で考えようとしていたのに。
「買い物よ。食材とか」
平然とした顔であっさりと告げられた『買い物続行』宣言に、大和は再度肩を落とした。
※※※
休日ということもあってか、市場は人で溢れていた。
こんなに人でごった返す場所、テレビで見たことはあっても経験したことはない。大和の住む街に市場なんてなかったし、少し足を伸ばした先にある商店街は、年を経るごとにさびれていくばかりだった。
昼食代わりのサンドイッチをぱくつきながら、大和は好奇心の赴くままに周囲を見回す。
市場に入るなり「お腹すいた」、と駄々をこねるように訴えたところ、「そういえばそろそろお昼ねぇ」とすぐ近くにあった(元の世界ならファーストフード店と呼べるような)店で腹にたまりそうなものを選んで買ってきたのだ。
買い食いは行儀が悪い、なんて注意する姉ではないので、二人してサンドイッチを口にする。
食べる間は咀嚼するのに夢中で無言だ。うん、おいしい。
(なんか……異世界っぽいなぁ)
自分でも間抜けとしか言いようのない感想だが、それは正直な印象だった。
広い一本の道はちゃんと整備されているとは言いがたく、ざらついた硬い砂の感触が薄っぺらい靴の裏から伝わってくる。目玉商品を並べた店先が道を挟んで左右を埋め、呼び込みの声が快活に響く。
姉はここを『市場』と大和に教えたが、商店街と市場を足して2で割ったような雰囲気に他の呼び方があるのではないかと無意味なことに頭をひねった。
適当なことを考えながら最後の一口を胃に収め、隣を見る。すでに食べ終え、歩きながら店先に並ぶ食材を物色してい姉の表情は真剣そのものだ。
「なんで急に、醤油がどうのこうの騒ぎ出したの?」
振り返ってみると一度も訊ねていなかった質問を口にする。
真剣な表情を一転させ、大和に視線を合わせるため和巳がこちらを見上げた。
「あぁ、それね。ホームシックには醤油が効く、って聞いたことない?」
そんな話はまったく知らず首をかしげる大和に、姉が語るのはどうにも笑い話としか思えない迷信のような話ばかりだった。
「最近なにか物足りないな、って思ってたのよ。で、さっきの話を思い出したの。簡単に見つかってよかったわ」
機嫌よく喋られても困るしそもそも簡単といえるのかどうかとかその他諸々はひとまず置いといて、
「そんな理由……?」
嘘か本当かも分からない話のせいで貴重な休日を、この調子だと丸一日の勢いでつぶされた、のか?
「オレ、やることたくさんあったんだけど!?」
周囲の迷惑にならないよう気をつけながら叫ぶが、姉は一向に気にしない。
気にしないどころか食材探しを再開しており、既に視線が外れている。
「大和食べれないもの無かったわよねー?」
「……聞いてないしっ」
「お肉はやっぱり牛よね。鳥類が食べられないのは残念だけど、牛とか豚は大丈夫なのは救いだわ」
「……そうだねー」
この世界では鳥を食べることが好まれない。禁忌、というほどの強制力はないが、暗黙の了解に近いものがあるらしい。いわく、
『空は神の領域ですから、その空を自由に翔る鳥もまた、神の眷属になるのですよ』
とのことらしい。高柳家はこれといった信仰もなければ興味もない家庭だったのでピンと来なかったが、そんなものなのだろう。
強引な姉の態度にはそれなりに慣れている大和は諦め、黙って買い物に付き合うことにする。悟りを開けそうな心境だ。
目当ての品を見つけたらしい和巳は、初めて来る場所への興味を隠せずおっかなびっくり覗く大和と違い、慣れた様子で買い物を続ける。
研究院の雑用という仕事で、何度か来たことがあるのだろう。気さくな店員と二、三、言葉を交わして会計を済ませた。
一体、大和の平穏はいつ訪れるのだろう。……永遠に訪れそうにないな、なんて考えを、悩み多き少年は頭を振って追い出した。